カルホラ朝・タルプル王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 01:59 UTC 版)
「ハイデラバード (パキスタン)」の記事における「カルホラ朝・タルプル王国」の解説
1757年頃、インダス川はモンスーンによる大洪水で流路が変わった。ミアン・グラム・シャー・カルホラがシンド王になった時、首都クダバード(ダドゥの近く)は何度も洪水に見舞われていた。ミアン王はより良い場所に首都を移す事を決めた。ミアン王時代はシンドの黄金時代と言われている。 1768年、ミアン王は古都ネルーン・コトゥの上にパッコ・チッロ砦を中心に新首都ハイデラバードを建設した。ムハンマドの義理の息子のハイダルが名前の由来である。 1789年、タルプル王国のミー・ファテー・アリ・ハーン・タルプルがカルホラ王国からハイデラバードを奪った。 1792年、ミー王は正式にハイデラバードに入城し首都とした。彼はパッコ・チッロ砦を住居兼王宮とした。クダバードから多くの住民が新首都に移住した。 1843年2月17日、タルプル王国とイギリスの間でミアニの戦いが始まった。3月24日、タルプル王国はイギリスに降伏した。その後イギリスはシンド州全体を征服した。州都はイギリス東インド会社の有るカラチに移された。王族はカルカッタ近郊で幽閉された。王族の遺体はイギリスの許しを得て、ハイデラバードが始まった場所であるガンジョ丘に埋葬された。
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