ネルソン・ペレイラ・ドス・サントスとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 製作者 > 映画製作者 > ブラジルの映画監督 > ネルソン・ペレイラ・ドス・サントスの意味・解説 

ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス

(ネウソン・ペレイラ・ドス・サントス から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 14:16 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の姓)はペレイラ、第二姓(父方の姓)はドス・サントスです。
ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス

ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス(Nelson Pereira dos Santos、1928年10月22日 - 2018年4月21日)は、ブラジル映画監督である。グラウベル・ローシャとならぶ「シネマ・ノーヴォ」の中心人物として知られる。

来歴・人物

1928年10月22日サンパウロ州の州都サンパウロ市に生まれる。

1955年、初めて監督した長篇映画『リオ40度』が公開される。同作は、リオデジャネイロファヴェーラでの生活のクロニクルであり、ほかの何人かの映画作家たちに影響を与え、「シネマ・ノーヴォ」運動を噴出させた。そればかりでなく、1956年フランスパリで上映され、フランソワ・トリュフォージャン=リュック・ゴダールを熱狂させた。ヌーヴェルヴァーグの誕生を加速させた作品である。

ブラジルの著述家グラシリアーノ・ラモスの同名の小説『Vidas Secas』を原作にした映画『乾いた人生』も監督した。

ブラジル以外でもっともよく知られている作品は『私が食べたフランス人』(1971年)である。同作はディテールを16世紀に置き換え、ブラジル沿岸のフランス人とポルトガル人の入植者に反対して、いまは絶滅している土着の戦闘部族トゥピ族のカニバリズムの実践を主張した。ヨーロッパの植民地主義についてのブラック・コメディであり、「アントロファギア Antropofagia」(文化としてのカニバリズム)をブラジルのモダニストたちの風刺的につかい、1960年代トロピカリア運動を現代にリヴァイヴァルした。それと同様に、ラテンアメリカの先住民の歴史的ジェノサイドとその文明の段階的破壊についての辛辣な解説となっている。

1986年1993年ヴェネツィア国際映画祭審査員を務めた。

近作は2006年の『ブラジリア18%』である。同作は、政治汚職、裁判の証人殺し、マネー・ロンダリングといった現代ブラジル政治の暗黒面を探る作品である。

2018年4月21日、多臓器不全のためリオデジャネイロで死去。89歳没[1]

フィルモグラフィ

脚注

関連事項

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス」の関連用語

ネルソン・ペレイラ・ドス・サントスのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ネルソン・ペレイラ・ドス・サントスのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのネルソン・ペレイラ・ドス・サントス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS