ニューヨーク対ニュージャージー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 15:47 UTC 版)
「マルコム・マクレーン」の記事における「ニューヨーク対ニュージャージー」の解説
1963年8月、マクレーンは、更に多くのコンテナを取り扱うため、ニューアーク港に101エーカー(0.41km2)の港湾施設を新たに建設している。1960年代後半までコンテナ市場の発展が遅かったため、多くの港では、コンテナを船舶に積み降ろすクレーンが設置されていなかった。伝統的な業界故に改革の速度は遅く、生計が脅かされるとして港湾労働者組合はこの新しい流れに対し抵抗している。ニューヨーク港はコンテナリゼーションという幸運の到来により、この海運産業の中心都市としての座を手放すまいと躍起になるが、大きな変化故付いて行くことができず、結果、投資が全て無駄となりニューヨークの経済は大打撃を受けることになった。 川を挟んだ土地であるためコンテナの取り扱い量が増えたことでトンネルや橋梁が陸上輸送上のボトルネックとなり大きな障害となった。また、沖仲仕も古くから港周辺に住み、何世代も続く世襲制となり、荷役作業は班を組んで行うため結束が強く、ストライキも頻繁に行われていた。権利運動の結果、公営仲仕が誕生しており、港にトラックで搬入する場合は公営仲仕を通さなければならず、通さず独自に荷役を行うと公営仲仕による妨害行為が待っていた。なお、この過去から現代でコンテナを扱うチームを「ギャング」と呼称する。1953年、ニューヨーク州知事である「トマス・E・デューイ」によってふ頭地区風紀委員会が立ち上げられ、公営仲仕の廃止が決定された。両知事により度重なる舌戦が繰り広げられた結果、ニュージャージーに大型コンテナターミナル「ポートエリザベス」が建設されニュージャージーの勝利に終わった。
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