ニューヨークの反乱
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「フランシス・ニコルソン」の記事における「ニューヨークの反乱」の解説
1689年5月30日、ニコルソンが民兵隊の士官に乱暴な言葉を吐いたという小さなできごとが、一挙に反乱を引き起こした。ニコルソンはその短気さがよく知られており、その士官に「お前に指揮されるよりも、町が火に包まれるのを見たいものだ」と告げた。ニコルソンが本当にニューヨークを燃やそうとしているという噂が町中に広まった。翌日、ニコルソンはその士官を呼び出し、その任務を辞職するよう要求した。その士官の上官であるエイブラハム・ド・ペイスターは、ニューヨーク市でも最大級に裕福な者であり、ニコルソンとの激論となり、その後やはり民兵隊長の弟ジョハニスとともに評議会の議場から飛び出していった。 民兵隊が招集され、一団となってジェームズ砦に殺到し、占領した。ある士官が火薬庫の鍵を要求するために評議会の元に派遣された。これに対してニコルソンは「流血沙汰やそれ以上の間違いを起こさないように」といって遂に承服した。翌日、民兵隊士官の作戦会議が開かれ、ジェイコブ・ライスラーを市民兵隊指揮官に選んだ。ライスラーがこれを受け、反乱軍は新しい君主(ウィリアム・アンド・メアリー)が適切に認証した総督を派遣するまで、君主のために砦を支配するという宣言を出した。 この時点で民兵隊が砦を支配し、すなわち港全体を支配することになった。港に船が到着すると、乗客や船長を直接砦に連れて来て、ニコルソンとその評議会に外部から接触しないようにした。6月6日、ニコルソンはイングランドへ戻ることを決め、そこでの手続きに使う証言を集め始めた。6月10日にニューヨーク市からジャージーの海岸に向けて出発し、そこでトマス・ダンガンと落ち合えることを期待していた。ダンガンはその後直ぐにイングランドにむけて船出すると予想していた。しかし、実際に出港できたのは6月24日になってからだった。多くの船から乗船を断られ、やっとダンガンのブリガンティンの分担を購入できた。一方、ライスラーは6月22日にウィリアム・アンド・メアリーによる支配を宣言し、6月28日、合法の権威が不在の場合に代行する植民地安全委員会が、ライスラーを植民地の最高司令官に選定した。 ニコルソンは8月にロンドンに到着し、ニューヨークの状況を国王と貿易相に説明し、新しいニューヨーク総督の任命を督促し、自分を売り込んだ。チャールズ・ポーレット(この時はボルトン公爵)やその他庇護者の働きかけがあったにも拘わらず、国王ウィリアムは11月になってヘンリー・スローター大佐を次のニューヨーク総督に選んだ。しかし、国王はニコルソンの働きを認め、バージニア植民地副総督に任命することで応えた。
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