ナーヤカ制の崩壊とナーヤカ朝
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「ナーヤカ」の記事における「ナーヤカ制の崩壊とナーヤカ朝」の解説
1565年1月、ターリコータの戦いで、ヴィジャヤやナガル王国がデカンのムスリム5王国に敗北し、ビジャープル王国とゴールコンダ王国の侵入が始まるようになってから、その状況一変する。 ヴィジャヤナガル王国の衰退により、それまで王国に忠誠を誓っていたナーヤカたちが、王に対する忠誠を徐々に怠るようになり、独自の権力行使を行うようになってきたのだ。 アーラヴィードゥ朝のシュリーランガ1世(在位1572 - 1586)の治世、タミル地方のシェンジ(ジンジー)、タンジャーヴール、マドゥライ、カルナータカ地方のケラディ、チトラドゥルガなどの有力な大ナーヤカは、ヴィジャヤナガル王国おいて半独立の政権を打ち出していた。 これらナーヤカ政権は、「ナーヤカ領国」あるいは「ナーヤカ朝」とよばれ、ヴィジャヤナガル王国の衰退要因の一つとなった。 トゥルヴァ朝時代に積極的に行われてきたナーヤカの任地替えも、アーラヴィードゥ朝になってほとんど行われていない。 おそらく、ムスリム5王国の侵入などの混乱によって、ヴィジャヤナガル王国ではナーヤカの任地替えがおろそかになり、ナーヤカたちが在地勢力として力を持ち、もはや無理になったのであろうと考えられる。 これらの状況から見て、16世紀末のヴィジャヤナガル王国においては、ナーヤカ制は事実上崩壊していたことは明らかである。 とはいえ、ヴィジャヤナガル王国はナーヤカに対する統制を失ったわけではなく、シュリーランガ1世の弟で「最後の名君」ヴェンカタ2世(在位1586 - 1614)は、各地のナーヤカに対して軍事的威圧を行っている。 ヴェンカタ2世は、タミル地方におけるナーヤカの反乱を幾度となく掃討し、1604年に同王はヴェールールに遷都したが、この地もヴェールールのナーヤカ一族から奪ったものだった。 だが、1614年にヴェンカタ2世が死ぬと、大規模な内乱が勃発し、ナーヤカたちは内乱に参加したが、これを機に大ナーヤカは事実上独立の道をたどることとなった。 大ナーヤカはナーヤカ朝として独立を果たしたが、中小ナーヤカは大ナーヤカの下についたり、あるいは、ビジャープル王国とゴールコンダ王国の征服の過程で、そのザミーンダールになる者もあらわれた。 また、17世紀末にムガル帝国により、ビジャープル王国とゴールコンダ王国が滅ぼされ、南端部を除いて南インドまで征服すると、ナーヤカたちはそのもとでも、ザミーンダールとして存続を許された。
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