ナスル朝に対抗する三国同盟の成立
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「ムハンマド3世 (ナスル朝)」の記事における「ナスル朝に対抗する三国同盟の成立」の解説
ワズィールのアッ=ダーニーがナスル朝に対する懸念を払拭しようと努めていたにもかかわらず、アラゴンはナスル朝に対抗する外交上の取り組みを継続させていた。そして1308年12月19日にアラゴンとカスティーリャがアルカラ・デ・エナーレスにおいて条約を締結したことで、この外交成果は頂点に達した。両国はナスル朝を攻撃し、単独では講和を結ばずにその領土を分割することで合意した。アラゴンはナスル朝の領土の6分の1を手に入れ、カスティーリャは残りの領土を獲得することになった。また、ジャウマ2世はマリーン朝のスルターンのアブー・アッ=ラビーとも協定を結び、マリーン朝によるセウタ征服を支援するために一定額の資金の提供と引き換えにガレー船と騎士を派遣し、さらに征服で得ることになるすべての持ち運び可能な資産がアラゴンへ譲渡されることになった。 歴史家のレオナード・パトリック・ハーヴェイ(英語版)の言葉を借りれば、「破壊的な敵対者の顔触れ」である三つの勢力はナスル朝に対する戦争の準備を始めた。そして二つのキリスト教王国は(マリーン朝の協力には言及することなく)ローマ教皇クレメンス5世(在位:1305年 - 1314年)に十字軍を発する教皇勅書と教会からの財政支援の許可を求めた。これらの要求は1309年3月と4月に認められた。アラゴンによる海軍の準備はナスル朝でも注視されており、1309年2月末にムハンマド3世はジャウマ2世に作戦の対象について問いただした。ジャウマ2世は3月17日に回答し、サルデーニャを征服するためであると明言した。その一方でカラトラバ騎士団の総長は既にナスル朝の領内を攻撃しており、カルタヘナの司教は3月13日にルブリン(英語版)を占領した。これに対してナスル朝のアルメリアの総督は市内に拠点を置くカタルーニャ商人を拘束して商品を没収することで応じ、同時にナスル朝の艦隊も戦争への準備を始めた。
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