トーマス・デューイ対公共の敵ナンバー1
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 07:24 UTC 版)
「ラッキー・ルチアーノ」の記事における「トーマス・デューイ対公共の敵ナンバー1」の解説
1936年に野心家のトーマス・デューイ検事は、ルチアーノを「公共の敵ナンバーワン」と名指しし厳しく追及した。そのため当時引退したギャングが集まる街だったアーカンソー州ホットスプリングスに身を隠した。このとき、古くからの友人のオウニー・マドゥンに生活の面倒を見てもらう。しかし4月1日にカジノで遊んでいたところ逮捕される。マドゥンが用意した優秀な弁護士を雇い5千ドルですぐに釈放されるが、デューイ側はすぐに再逮捕しニューヨークに連行された。ルチアーノ側はアーカンソー州のカール・E・ベイリー司法長官に5万ドルの賄賂を交換に釈放を求めたが断られた。 裁判では殺人・酒の密造・密売・労働組合の恐喝・みかじめの取立てなどの数多くの容疑がある。しかし有罪になったのは彼が犯さなかった数少ない犯罪の1つである強制売春で、売春事件としては異例の禁固30~50年の刑を宣告された。このときの裁判で検察側が出頭させた証人の多くは、当局の指示に従わないと逮捕すると脅迫を受けた売春婦たちで、ルチアーノに対して不利な証言をさせていた。そこまでしてもデューイ側はなんとしてもルチアーノを投獄させたかったという。ルチアーノは「私は多くの不法行為に関与したが強制売春だけはやっていない」と無実を主張したが、その後10年近く刑務所で暮らすことになる。ギャングが監視体制の厳しさからシベリアと恐れていたダンネモーラ刑務所に送られた。投獄されるがその権勢は衰えず、刑務所内から面会に来たマイヤー・ランスキーやフランク・コステロたちを使い、組織犯罪の指揮をとり続けた。刑務所の中でも大きな権威を持っていた。刑務所ではラジオを置く・新聞を取る・労働はせずに快適に暮らしていた。
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