トルコ政府からの妨害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 15:45 UTC 版)
1978年にはストラスブール大学人文学部でトルコ語学の博士号を取得した。 それ以降もトルコの少数民族語の実地調査を続けた。しかし当時のトルコ政府は、上述のように「トルコは単一言語国家である」という公式見解を堅持していたことから、少数民族語の調査自体を快く思っていなかったこともあり、現地調査にあたっては様々な困難とも直面した。 1985年9月にトルコ東部トゥンジェリ県の山村でザザ語などを調査していた際、就寝中の小島の宿に憲兵隊が突然押し入ってきた。「身分証を見せろ」との声で目を覚まされ、暗闇で暴行を受け、銃口を突きつけられた。村の警察署へ連行され、「危険人物の恐れあり」として翌月まで不当に拘束された。この事件の前後から、トルコ政府から露骨な監視を受けるようになったという。 1986年には政府の特別許可を得てラズ語の現地調査を行った際に、ある結婚式に招かれてラズ民謡をラズ語で歌おうとしたところ、聞きつけた官憲に妨害された。それをきっかけとしてトルコ外務省から「自主退去勧告」を出されて、事実上の国外追放となった。その際には徒歩で国境を超え、ギリシャへ入国した。
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