デビュー後と渡米に関して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 14:56 UTC 版)
「船山基紀」の記事における「デビュー後と渡米に関して」の解説
「アザミ嬢のララバイ」で編曲家として初ヒットした後、若くて勢いのあるアレンジャーを探すプロデューサーから指名を受けて沢田研二の新曲「勝手にしやがれ」の編曲を任された。同曲で日本レコード大賞を受賞した船山は、「編曲家として帝国劇場のステージに立てたことは感動的な思い出」と後年語っている。 それ以降編曲の依頼が増えたことから、「夕方から打ち合わせをして夜中に譜面を書き翌日の昼からレコーディング」という作業を繰り返す日々がしばらく続いた。また、依頼ごとにヒットを願う歌手の所属先のスタッフから発破をかけられ、疲労と重圧を感じながらも音楽作りを追求し心身ともに摩耗していった。その結果「このままではアイデアが枯渇してしまう」と危機感を覚えた船山は、1981年に仕事を一旦整理しロサンゼルスに旅立った。 現地の音楽関係者と交流した船山はこれまでの疲れが癒やされ、枯れかけていた自分が蘇るような感覚になり音楽制作の意欲を取り戻した。またこの渡米で、発売されたばかりのシンセサイザー「フェアライトCMI」と出会えたことが大きな収穫となった。船山によると当時の価格で1,500万円もしたが、画期的な機材で新たな音楽が作れることを確信し購入した。帰国後このシンセサイザーを用いて80年代に多くの楽曲を編曲した船山は、後に「自分の編曲がその時代の音になったと思う」と自負している。
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