ディレカンの設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 13:58 UTC 版)
1982年6月、大森一樹、相米慎二、高橋伴明、根岸吉太郎、池田敏春、井筒和幸、黒沢清、石井聰亙ら若手監督9人による企画・制作会社「ディレクターズ・カンパニー」(ディレカン)を設立、監督代表として取締役に就任する。長谷川が「一人の監督の主宰する独立プロではなくて企業としてもちゃんと映画を作っていける集まりを作りたい」と相米と根岸に話をしたら、二人が「やるなら乗ってもいい」と応えたことを発端とする。ディレカンのうち、長谷川にとって一番目の弟分である相米と黒沢は長谷川の口利きで業界入りした。相米は前述のように長谷川の妻の知り合いという関係で日活に入り、長谷川とともに日活を退社して『青春の殺人者』でチーフ助監督を務めた。黒沢は雑誌『GORO』の座談会をきっかけに『太陽を盗んだ男』の脚本書きに引っ張り込まれたもの。石井聰亙は長谷川の誘いでディレカンに参加した。ディレカンは世間の関心を呼び、雑誌媒体の他、メンバー全員で『11PM』などテレビにも出演、これらを見て触発された若い映画人も少なくない。当初は週一回の定例企画会議があって全員で集まり、若い人材の発掘に脚本公募をすると400本集まり『台風クラブ』の脚本・加藤祐司や『東京上空いらっしゃいませ』の脚本・榎祐平などが世に出た。ディレカンではプロデューサーなどの裏方的仕事にまわり、石井聰亙監督『逆噴射家族』などを製作した。しかし経営は次第に悪化し、給料遅配が続いたときは、長谷川個人で借金をして会社につぎ込んだが、井筒和幸監督『東方見聞録』での死亡事故もあり、会社は倒産した。所属メンバーで唯一人、監督作を発表できなかった。
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