テューダー朝以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 21:10 UTC 版)
1485年にヘンリー7世が即位すると、ペンブルックは再びジャスパー・テューダーに授与された。1495年にチューダーが亡くなり、その後、個人の居城ではなくなったが、イングランド内戦の勃発まで、城の場所は平穏であった。しかし、1642年からの内戦の際、南ウェールズの大部分は国王チャールズ1世の味方であったが、ペンブルックは議会(円頂党)に賛成の意を示した。1644年、町は王党派の部隊により包囲されたものの、議会の援軍が近隣のミルフォード・ヘイヴン(英語版)から船で到着して救われた。議会派軍はその後、テンビー(英語版)、ハーバーフォードウェスト(英語版)、カルー(英語版)の王党派の城を占領していった。 1648年、第二次イングランド内戦 (Second English Civil War) の開始に、ペンブルックの司令官ジョン・ポイヤー(英語版)大佐は、テンビー城のパウエル大佐、チェプストウ城(英語版)のニコラス・ケミーズ(英語版)と並んで王党派の反乱を先導した。議会派より派遣されたオリバー・クロムウェルが、同年5月24日、6000人の兵とともにペンブルックに到着すると、2か月(7週間)の包囲戦(英語版)の後、7月11日の降伏により、城を占領した。王党派による反乱の3人の指導者は反逆で有罪とされ、クロムウェルは城を火薬などで破壊するよう命じた。また、町の住民は要塞を解体し、その石材を各用途に再使用することが一様に奨励された。 城は、その後放棄され、石材が略奪されたことで、1880年まで廃墟のままであったことから、好古家ジョセフ・コブ (Joseph Cobb) により、3年間の修復事業が行われた。1928年までそれ以上のことは何もされなかったが、アイヴァー・フィリップス(英語版)少将が城を取得すると、城壁、ゲートハウスならびに塔の大規模な修復が開始された。彼の死後、フィリップス家とペンブルック・タウン評議会(英語版) (Pembroke Town council) により共同で城を管理するためのトラスト (Pembroke Castle Trust) が設立された。
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