ダクスベリー入植
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/20 17:08 UTC 版)
「マイルス・スタンディッシュ」の記事における「ダクスベリー入植」の解説
1625年、プリマス植民地指導者がスタンディッシュに、ロンドンに旅して「マーチャント・アドベンチャラーズ」との新しい条件を交渉してくるよう指名した。もしも合意に達するならば、ピルグリムはアドベンチャラーズに対する負債を返済でき、開拓者が新しい土地を割り当てられる権利を得て、望む場所に入植できるはずだった。スタンディッシュはその交渉に成功し、1626年4月にはプリマスに戻った。プリマスが1626年に、このときはアイザック・アラートンが行った交渉も成功し、プリマスのスタンディッシュを含む指導者達がアドベンチャラーズからの植民地負債の返済を終えた。 プリマスの指導者達はマーチャント・アドベンチャラーズの指示から自由となり、1627年に土地の開発部門を組織することで新しく得られた自治権を行使した。現在のプリマス、キングストン、ダクスベリー、マーシュフィールド各町の海岸に沿って、植民地の各家族に大きな農園用地が割り付けられた。スタンディッシュは後にダクスベリーとなる場所に120エーカー (49 ha) の農園を受け取った。スタンディッシュは家を建て、1628年頃にそこに入植した。 1635年までに(ペノブスコット遠征の後)、スタンディッシュが静かな生活を求め、ダクスベリーの農園で家畜を飼い、畑を耕すようになったことを示す証拠がある。当時スタンディッシュは51歳であり、植民地を守る責任を若い世代に渡そうとし始めていた。1635年の植民地の記録は、スタンディッシュの直接の部下であるウィリアム・ホームズ中尉が、民兵を訓練するよう指名されたことを示している。ピクォート戦争が1637年に起こると、スタンディッシュは兵士30名の中隊を立ち上げる委員に指名されたが、戦場で中隊を率いたのはホームズだった。 ダクスベリー(ダクスボロとも呼ばれた)と呼ばれることになる土地に住む家族が、独自に教会と牧師を擁する別の町としてプリマスからの分離を要請した。この要請が1637年に認められた。歴史家のジャスティン・ウィンザーを含め、ダクスベリーという町名は、ランカシャーのチョーリーに近いダクスベリー・ホールにちなんでスタンディッシュが提案したものであり、そこはスタンディッシュ家の分家が所有していたと主張する者がいる。この名称の一致はスタンディッシュがダクスベリーの命名に関与していたことを示すものであるが、どのような経過でその名前に決定されたか記録が残っていない。
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