セーラム遷都以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/10 05:31 UTC 版)
「オレゴン州会議事堂」の記事における「セーラム遷都以前」の解説
1848年にオレゴン準州が成立する以前、1844年6月27日から翌1845年12月19日にかけて開かれたオレゴン・カントリーの暫定政府議会は、オレゴンシティをオレゴン・カントリーの首都に選定した。オレゴン準州が成立すると、オレゴンシティがそのまま準州都になった。従って、オレゴンの最初の議事堂はオレゴンシティに置かれた。暫定政府が使用していた建物のうちの1棟で、ジョン・L・モリソンが1850年に建設したものが、準州都がセーラムに移されるまで議事堂として使用されていた。オレゴンシティが当時の政治の中心になったのは初代オレゴン準州知事ジョセフ・レーンの声明によってのことであった。1850年、準州議会は準州都をセーラムへ移す法案を可決した。しかし、準州知事ジョン・P・ゲインズやオレゴン準州最高裁判所(裁判官オービル・C・プラットを除いて)はセーラムへ移ることを拒み、1852年に連邦議会がセーラム側に有利な形でこの問題を解決するまでオレゴンシティに残った。 1855年1月13日、オレゴン準州議会は準州都をセーラムからコーバリスに移す法案を可決させた。しかし、セーラムでは既に多くの公共施設の工事が進んでいたため、準州知事ジョージ・ロウ・カリーをはじめ、多くの者がコーバリスへの遷都に反対した。カリーはこの問題をワシントンD.C.の財務長官に訴えた。財務長官ジェームズ・ガスリーは、遷都は連邦議会によってなされていない限りは無効であると明言した。その後、カリーとオレゴン準州務長官ベンジャミン・ハーディングはセーラムに戻った。同年12月3日には準州都をセーラムに戻すべく、準州議員がコーバリスに招集された。同月15日には準州都をセーラムに戻す法案が可決され、その3日後には準州議員が再び、今度はセーラムに招集された。 しかし、同月29日に議事堂が焼失すると、準州都をどこに置くかをめぐって、再び議論が巻き起こった。準州議会は、今度は住民投票でこの問題を解決しようとした。最初の投票は翌1856年6月に行われ、最も得票数の多かった2都市の間で決選投票を行うことになった。その結果、最初はユージーンとコーバリスの間で決選投票が行われることになったが、不正投票が発覚して該当する票が無効とされた結果、決選投票はユージーンとセーラムの間で行われることになった。同年10月に行われた決選投票ではユージーンのほうが得票数が多かったが、投票率の低さを理由として投票結果は無視され、準州都はセーラムに残された。 この問題に最終的な決着が付けられたのは1859年にオレゴン準州が州に昇格した後、1864年のことであった。1860年、州議会は州都をどこに置くかについて、再び住民投票を行うことにした。1862年に行われた投票では、どの候補都市も州法で定められた50%以上の票を獲得することができなかった。投票は1864年に再度行われ、その結果、セーラムが79%の票を得て、正式に州都に選定された。オレゴン州憲法では第14条において、州政府をマリオン郡に置くと記されている。セーラムはマリオン郡の郡庁所在地である。
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