ストートン家の受難
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 02:22 UTC 版)
「ストートン男爵」の記事における「ストートン家の受難」の解説
8代男爵チャールズ(1520–1557)は母の再婚問題の件で近隣の地主ウィリアム・ハートギル(William Hartgill)と確執を深め、やがてハートギルとその息子を拉致し殺害に及んだ当主である。逮捕後の裁判の結果、有罪との判決が下りて絞首刑に処された。その息子の9代男爵ジョン(1553-1588)は1575年に議会招集を受けて貴族院に列したが、『完全貴族名鑑(英語版)』は「8代男爵は重罪による法権喪失のため爵位を失っており、その子ジョン・ストートン(英語版)は1575年の議会招集を受けて新規に爵位を得た」という考え方を説いている。 そのジョンには男子がなく、彼の弟エドワードが爵位を襲って以降はこの系統で続くが、以降のストートン家は衰微をたどる。例えば、10代男爵エドワードは政府転覆未遂事件の火薬陰謀事件への関与の疑いが持たれて、一時はロンドン塔に収監された。さらに、11代男爵ウィリアム(1594頃-1672)は王党派として国王チャールズ1世を支持した人物だが、カトリック信仰を議会派から指弾されて財産没収の憂き目に遭っている。また、12代男爵ウィリアム(1685年没)も信仰を維持しつつ1673年に貴族院議員となったものの、貴族に対しても宗教審査を行う1678年審査法成立とともに議会から追放された。ストートン家は以降、1829年ローマ・カトリック信徒救済法によるカトリック解放まで、イングランド貴族でありながら貴族院に議席を占めることはできなかった。12代男爵以降は、長男エドワード、次男トマス、その甥チャールズ、その弟ウィリアム、その子チャールズ、さらにその息子ウィリアムの順で爵位継承された。
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