スクリューの設計
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/03 15:51 UTC 版)
「ジョン・エリクソン」の記事における「スクリューの設計」の解説
次にエリクソンは2つのスクリュープロペラを別々の方向に向けた船を設計した(それ以前にスクリュープロペラ1個での設計を試していた)。しかしイギリス海軍本部はこれを気に入らず、そこで幸運にもアメリカ人艦長ロバート・ストックトンに出会う。ストックトンはエリクソンにスクリュー推進の蒸気船を設計させ、アメリカに渡ってもっと自由に発明をしないかと誘った。1839年、エリクソンはニューヨークに移住した。ストックトンは、自身の政治的コネを利用し、エリクソンに新たなフリゲート級艦船の建造を監督させようと計画していた。大統領ジョン・タイラーの下で、この新設計に予算が割り当てられた。しかし、その予算はフリゲート艦ではなく、700トンのスループ艦のぶんだけだった。このスループ艦は USS Princeton と名付けられた。プリンストンはストックトンの故郷である。 この船は当時最先端の水上戦闘艦であり、3年をかけて建造された。2基のスクリュープロペラに加え、回転台座に12インチ先込砲を設置する設計だった。この砲塔もエリクソンが設計したもので、hoop製法で砲尾が頑丈になっており、従来よりも推進力を大きくすることができた。他にも組み立て式の煙突や改良型反動システムなどの発明が使われている。 船の完成が近づくにつれ、エリクソンとストックトンは反目するようになっていき、ストックトンはエリクソンをプロジェクトから締め出そうとしはじめた。ストックトンは船の開発を行ったのがエリクソンであることを部外者に隠そうとし、2基めの12インチ砲塔を自分で設計して、全ての手柄を自分のものにしようとした。しかし、1基めの砲塔の設計を理解していなかったため、2基めの砲塔には致命的な欠陥があった。 この船は進水した当初、大成功を収めた。1843年10月20日、Princetonは当時最速と言われていた外輪船グレート・ウェスタンとの競走に勝利した。しかし不運にもストックトンの砲塔でデモンストレーションを行った際に砲尾が壊れ、国務長官エイベル・アップシャーと海軍長官トマス・ギルマーを含む8名が犠牲となった。ストックトンは、壊れたのが自身の設計した砲塔だったにも関わらず、非難をエリクソンにそらそうとした。また、エリクソンへの報酬の支払いも拒み、政治的コネを利用して海軍がエリクソンに支払うのを阻止した。これらの事からエリクソンはアメリカ海軍を深く恨むことになる。
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