ジンジッチ党首時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 10:06 UTC 版)
「民主党 (セルビア)」の記事における「ジンジッチ党首時代」の解説
ジンジッチはユーゴスラビア紛争のあおりでセルビア国内で民族主義が高まるなか、民主党を維持し続けたが大きな勢力にすることはできなかった。1996年から1997年にかけて、権威主義的な傾向を強めていたミロシェヴィッチ政権に対する大規模な抗議行動が起こった後、ジンジッチが第二次世界大戦後初の非共産系のベオグラード市長となった。このときは政敵であったヴク・ドラシュコヴィッチのセルビア再生運動、ヴェスナ・ペシッチのセルビア市民同盟と連合を組んだが、内紛により4ヶ月で瓦解した。1997年の議会選挙はボイコットした。 1999年、コソボ紛争においてNATOによるセルビアへの空爆が行われているなか、ジンジッチは避難のため一時モンテネグロへ逃れた。ジンジッチが当時のアメリカ合衆国大統領ビル・クリントンと握手する写真は、ジンジッチと民主党の親欧米的・国際的な穏健民主派としてのイメージを強くアピールするものだったが、国内の民族主義者からはジンジッチと民主党は売国奴だという批判を集めた。ジンジッチはセルビアに帰国後、国家の安全を損なったとして逮捕された。 2000年にミロシェヴィッチ政権が街頭デモにより打倒される(ブルドーザー革命)と、同年の議会選挙で民主党などによるセルビア民主野党連合が第1勢力として過半数の176議席を獲得(うち民主党は45議席)、ジンジッチがセルビアの首相となった。また、コシュトニツァがユーゴスラビア連邦の大統領となった。 2003年、ジンジッチ首相はベオグラードにて暗殺された。 ジンジッチの暗殺を受けて、後任の党首となったのはボリス・タディッチだった。民主党はジンジッチ暗殺後の国民議会の選挙では37議席にとどまったが、タディッチは翌2004年の大統領選挙に勝利した。
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