ジョージアのデリエン(1735年)
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「スコットランドによるアメリカ大陸の植民地化」の記事における「ジョージアのデリエン(1735年)」の解説
ジョージアのデリエンはイギリス領ジョージア植民地にできたスコットランドの開拓地だった。そこは失敗に終わったパナマ地峡の開拓地に因んで名付けられたが、当時「ニューインヴァネス」の名前でも知られた。 1736年1月に、ジェームス・オグルソープ将軍が開拓者軍人として徴募した177名のスコットランド・ハイランド地方の移民(男女と子供)によって設立された。彼等は新しい開拓地を造ることと、ジョージアの他の土地を南のスペインから守る緩衝材としての役割を与えられた。スコットランド人移民は周辺地域に多くの軍事用砦を急速に建設し、農業であまり成果を上げられなかった後は、生き残りのために牛の飼育と木材の伐採に特化した。 1739年、この植民地の著名人18人が、ジョージアにおける奴隷制導入に反対する最初の請願書に署名した。これはサバンナの住民が奴隷制禁止令を撤廃させるべくオグルソープと理事会に嘆願書を提出したことへの反応だった。このときはスコットランド人移民の請願が成功し、奴隷制が導入されたのは10年後の1749年になってからだった。 ジャコバイトとハノーバー家側開拓者の間に紛争はあったが、この植民地はかなり成功し、1737年と1741年には新たな移民が加わった。しかし、スペインやその同盟インディアンとの衝突は続いていた。1739年10月にジェンキンスの耳の戦争が起こったとき、スコットランド人はスペインの砦を5か所征服し、セントオーガスティンでは包囲戦を挑んだ。しかしその後のモサ砦の戦いで破れ、ダリエン住人の51人が戦死するか捕虜になるかした。これにも拘らず、ジョージアのスコットランド開拓地は存続を続けた。
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