ジャネットのその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/31 14:39 UTC 版)
「リチャード・モントゴメリー」の記事における「ジャネットのその後」の解説
モントゴメリーの妻ジャネットはモントゴメリーの死後53年間を生きた。ジャネットは常にモントゴメリーのことを「私の将軍」あるいは「私の軍人」と呼び、その評判を守った。モントゴメリの死後、彼が戦前に仕事を始めていたラインベックに近い家に移転した。戦争の残り期間も政治に興味を持ち続け、常にロイヤリストを厳しく批判した。戦後、元大陸軍の将軍ホレイショ・ゲイツが求婚したが断った。1789年、ジャネットはアイルランドにいるモントゴメリーの親戚を訪問する途中でニューヨークに立ち寄った。ここで就任宣誓を終えたばかりのワシントンの就任舞踏会に出席し、またワシントンとその家族を数回訪問した。その後間もなくアイルランドに渡り、イギリスのアメリカ政策について義姉と不和になった後で、1790年にアメリカに戻った。 1818年、ニューヨーク州知事スティーブン・ヴァン・レンセリアがケベック市からニューヨーク市へモントゴメリーの遺骸を移す許可を得た。1818年6月、モントゴメリーの遺骸はニューヨーク市に向けて出発した。7月4日にオールバニに到着し、船でハドソン川を下り、ニューヨーク市に向かった。ジャネットは家のポーチに出てきてモントゴメリーの遺骸を運ぶ船が川を下り、視界から消えていくのを見送った。その遺骸がニューヨーク市に到着すると、5,000人の民衆が葬列のために集まった。7月8日、遺骸は1776年に完成されていたマンハッタンのセントポール・チャペルにあるモントゴメリーの記念碑の隣に埋葬された。ジャネットはこの儀式のことを喜び、「私のかわいそうな軍人の灰に集められたほどの高貴な栄誉を望むことができるでしょうか」と記した。 その数年後、アンドリュー・ジャクソンがエドワード・リビングストンに当てた手紙で、「貴女の年取った姉(ジャネット)に最高の敬意を表させてください。彼女にその住まいから100マイル以内にいたら、愛国的モントゴメリー将軍の尊敬すべき名残を訪問し握手することで最高の栄誉を与えられることでしょう。彼はこの国の人々の心に今も生きていると伝えてください」と記した。この手紙が来てから3ヵ月後の1824年11月6日にジャネットは死んだ。
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