ジャズィーラ、南コーカサス、およびビザンツ帝国に対する戦線
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「ムウタディド」の記事における「ジャズィーラ、南コーカサス、およびビザンツ帝国に対する戦線」の解説
ムウタディドはジャズィーラでさまざまな対立勢力と戦った。これらの勢力の中には、ほぼ30年に及んでいたハワーリジュ派の反乱勢力(英語版)に加えて多くの自立していた現地の有力者がいた。その中でも代表的な存在は、アーミドとディヤール・バクル(英語版)を支配していたシャイバーン族(英語版)のアフマド・ブン・イーサー(英語版)とタグリブ族(英語版)の族長であるハムダーン・ブン・ハムドゥーン(英語版)であった。893年にムウタディドはハワーリジュ派が内部抗争に注意を逸らしている間にシャイバーン族からモースルを奪った。895年にはハムダーン・ブン・ハムドゥーンが自身の本拠地からの退去を強いられ、追い詰められた末に拘束された。一方でハワーリジュ派は指導者のハールーン・ブン・アブドゥッラーが896年にハムダーン・ブン・ハムドゥーンの息子のフサイン・ブン・ハムダーン(英語版)に敗れて捕らえられ、バグダードへ送られた後に磔刑に処された。フサイン・ブン・ハムダーンのこの功績は、アッバース朝軍におけるフサインの華々しい経歴と、後にジャズィーラの支配権の獲得に至ったハムダーン朝の段階的な隆盛の始まりを告げた。アフマド・ブン・イーサーは898年に死去するまでアーミドの支配を維持し、死後は息子のムハンマド・ブン・アフマド(英語版)に支配が引き継がれた。翌899年にムウタディドはジャズィーラに戻り、ムハンマドをアーミドから追放すると長男で後継者のムクタフィー(英語版)を総督の地位に据え、中央政府による統治下でジャズィーラ全域を再統一した。 しかしながら、現地の諸勢力が事実上独立して支配を維持していたジャズィーラの北に位置する南コーカサスのアルメニアとアーザルバーイジャーンに対する実効支配をアッバース朝の下に取り戻すことはできなかった。当時アーザルバーイジャーンのアッバース朝の総督であったムハンマド・ブン・アビッ=サージュは898年頃に独立を宣言したものの、すぐにキリスト教徒のアルメニア人諸侯との対立中にカリフの宗主権を再承認した。ムハンマドが901年に死去すると息子のディーウダード・ブン・ムハンマド(英語版)が後継者となり、半ば独立した勢力となったサージュ朝(英語版)によるこの地域の統合に至った。ムハンマド・ブン・アビッ=サージュは900年にタルスースの有力者の協力の下でディヤール・ムダルの占領を企てたとする嫌疑をも掛けられ、その後、報復行為に出たカリフがタルスースの有力者たちの拘束と都市の艦隊の焼却を命じた。この決定は何世紀にもわたるビザンツ帝国に対する戦争において自ら不利な状況を招くことになった。それ以前の数十年間にタルスースの住民とその艦隊はビザンツ帝国の国境地帯に対する襲撃で重要な役割を担っていた。その一方で、900年頃にギリシア人改宗者であるダムヤーナ・アッ=タルスースィー(英語版)の率いるシリアの艦隊がデメトリアス(英語版)の港を略奪し、アラブ艦隊は続く20年にわたってエーゲ海に大混乱をもたらした。これに対してビザンツ帝国はメリアス(英語版)などのアルメニア人亡命者の流入によって陸側で勢力を強めた。そして国境地帯を越えて支配を拡大し始め、アラブ側に勝利を収めるとともに双方の帝国間のかつての無人地帯に新たな軍管区(テマ)を設置した。
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