ジェンダー論・テクスト論から
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 08:04 UTC 版)
「とはずがたり」の記事における「ジェンダー論・テクスト論から」の解説
日本文学研究者の田中貴子は、本作品の内容をそのまま事実と見ることは、ジェンダー論・テクスト論の観点から問題があると主張している。 田中の主張によれば、日本文学においては、紀貫之による『土佐日記』以来、「女の書くものは、たとえ物語的な虚構に包まれていても、その根幹は私的事実の表白である」というテクスト(解釈、文脈)が、ジェンダーとしての女性に与えられていたという。つまり、読者が『とはずがたり』にリアリティを感じるとしたら、それは「女性とは退廃的な愛欲を赤裸々に告白するもの」という伝統的な性差意識の文脈に、その読者が囚われているからである。そして、『とはずがたり』作者はまさにその点を突き、ジェンダーとしての女性の仮面を被って、そのような性差意識の文脈に忠実に沿うような文章を書くことで、巧妙に現実性のある虚構を創造したのではないか、と推測している。 いうなれば、『土佐日記』は男性が「女」の振りをして書いた文学であるが、『とはずがたり』は女性が「女」の振りをして書いた文学といえる。田中によれば、『とはずがたり』の持つリアリティは、物語としてのリアリティであって、歴史的な事実(リアリティ)とは考えられないという。
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