シベリア出兵の混迷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:50 UTC 版)
「ロシア内戦」および「シベリア出兵」も参照 1918年(大正7年)8月に始まった日本のシベリア出兵は、アメリカ合衆国の呼びかけによる共同出兵であり、当初はアメリカの提議に従って「チェコ軍団救援」を目的とし、「ロシア内政不干渉」を謳ったものだった。しかし、チェコ軍団は赤軍と戦闘状態にあり、ボリシェヴィキ政権とは敵対していたので、ロシア内戦への干渉なくして救援は不可能であり、そもそもアメリカの提議自体に大きな矛盾があった。 つまりシベリア出兵の前提は、対独戦の一環としてのものであったが、1918年末には、ドイツ軍と連合国軍との間に休戦協定が成立し、チェコスロバキアも独立を果たして、前提が崩れた。そのため、連合国側、主に英仏は、反ボリシェヴィキを鮮明にし、日本もそれに同調して、反革命派によるロシア統一をめざしていたが、反革命派のコルチャーク政権(オムスク政権とも)は一年ほどしか続かず、1919年末に崩壊した。 1920年1月9日、アメリカが単独撤兵を通告してきたが、これは日本の出兵にとって大きな転換点となった。この1月から2月にかけ、革命派の勢力はニコリスク、ウラジオストク、ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスクの反革命勢力を倒し、それぞれに地方政権を掌握した。1月17日付、陸軍大臣の指示により、日本軍は中立姿勢をとることになったが、不穏な情勢の中、それまで反革命側に肩入れしてきた現地日本軍は困惑した。
※この「シベリア出兵の混迷」の解説は、「尼港事件」の解説の一部です。
「シベリア出兵の混迷」を含む「尼港事件」の記事については、「尼港事件」の概要を参照ください。
- シベリア出兵の混迷のページへのリンク