サンテティエンヌ、グルノーブル、ディジョン
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「松井大輔」の記事における「サンテティエンヌ、グルノーブル、ディジョン」の解説
2007-08シーズン終了後にル・マンとの契約を更新せず、リーグで10度の優勝を誇るASサンテティエンヌへの移籍を決め、2008-09シーズンよりクラブとの3年契約を交わした。シーズン序盤は充分に起用されなかったものの、シーズン途中に監督が交代すると徐々に出場機会を増やしていった。 2009年6月に翌年南アフリカで開催されるワールドカップ出場を目指すため、出場機会を求めてグルノーブル・フット38に移籍した。背番号は移籍前と同じ「22」を与えられた。しかし、クラブは序盤から敗戦を重ね最終的にはリーグ最下位で2部への降格が決定した。 グルノーブルの2部降格決定後は1部リーグでのプレーを目指して移籍先を模索。欧州の相当数のクラブが獲得に興味を持ったと報じられる中、松井自身はフランス1部への移籍にプライオリティを置いていた。また、ポルトガル・スーペル・リーガの強豪スポルティングCPと移籍寸前まで交渉が進んだが破談。移籍期間終了間際になってロシア・プレミアリーグのFCトム・トムスクに2010年末までの期限付きで加入することが発表された。ロシア移籍後、欠場も多く目立った活躍もないままレンタル期間を終え、Jリーグの複数のクラブから獲得オファーを受けるも、海外でのプレーを希望する本人の希望もあり、グルノーブルへ復帰した。しかし、チームは2部リーグでも最下位となり、3部リーグへ降格。 2010-11シーズン終了後、グルノーブルが経営難により、プロ選手との契約ができない4部リーグへの2段階降格が決まったことで、フリートランスファーでの移籍が可能となった。 2011年7月27日、この年クラブ初のリーグ・アン昇格を果たしたディジョンFCOへ完全移籍し2年契約を結んだ。しかし、ディジョンでは左足首の怪我とパトリス・カルテロン監督との確執もあり、ほとんど出場機会に恵まれずリーグ戦の出場はわずか3試合に留まりチームも2部に降格した。
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