サンテル事件、師 嘉納治五郎との決別
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 19:26 UTC 版)
「岡部平太」の記事における「サンテル事件、師 嘉納治五郎との決別」の解説
1920年(大正9年)に帰国後、内田信也に請われて旧制水戸高等学校のグラウンドを設計する。 この年、米国プロレスラー アド・サンテル(ルー・テーズの師匠の一人)から講道館への「プロレス対柔道」の異種対抗試合の申し込みを巡り、黙許という形で受け入れようとする嘉納治五郎と意見が対立し、講道館を去る。(岡部は米国でのレスラーと対戦経験から、ルールが異なるものが対決してもスポーツとして意味がなく、また、興業的試合をすればプロ団体とみられ、世界のアマチュアスポーツ界での柔道の振興がかなわなくなりかねないと強く反対したが、嘉納は意見を変えなかった。しかし、岡部が去った後、講道館は幹部の多くが反対したこともあり、サンテルと館員の試合を正式に禁じた。)
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