サロッティとは? わかりやすく解説

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サロッティ

名前 Salotti

サロッティ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/25 20:22 UTC 版)

サロッティの工場内(1910年)

サロッティ: Sarotti)は、1852年ベルリンで創業したチョコレートメーカーである。1998年に、このブランドはケルンシュトルヴェルク有限会社ドイツ語版: Stollwerck GmbH)が買収した。また、シュトルヴェルク有限会社は2002年バリーカレボーに買収され、次いで、2011年ベルギーの企業グループであるバロニードイツ語版に売却された[1]

歴史

ハインリヒ・ルートヴィヒ・ノイマン(: Heinrich Ludwig Neumann)が息子のルイス(: Louis)と共にベルリンフリードリヒ通りに洋菓子店フェリックス&サロッティ(: Confiseur-Waren-Handlung Felix & Sarotti)を開店した。豪華な東洋風の装飾が、提供される美味な菓子の贅沢さを引き立てていた。

同じくベルリンの菓子職人であったフーゴ・ホフマンドイツ語版(1844年 - 1911年)は、1872年にフェリックス&サロッティを買い取り、その後自身の製品もサロッティブランドで販売するようになった。ホフマンはフェリックス&サロッティの取引先だった。

店舗はモーレン通りドイツ語版に移転した。現在はモーレン通りではなくアントン・ヴィルヘルム・アモ通りドイツ語版に改名されている[2]。この通りの名前が、後にトレードマークのムーア人を選ぶきっかけになった。初年度の終わりには既に10人の労働者を雇用した。4年後、ドロテーエン通りドイツ語版への移転をきっかけに蒸気機関による機械化へと転換した。

サロッティという名前の由来は不明で、1894年に商標として登録されている[3]

サロッティ・ホーフ

1881年から同社はドイツ・チョコレートハウス・フーゴ・ホフマン(: Deutsches Chocoladenhaus Hugo Hoffmann)の商号を用いるようになった。また、事業が順調だったため、1883年に生産をベレ・アリアンス通り(: Belle-Alliance-Straße)81番地(現在のメーリング堤防通りドイツ語版)のより大きな施設のサロッティ・ホーフドイツ語版に移転した。パウル・ティーデ (: Paul Tiede1842年生 - 1912年没)が、統合後も別々に運営されていた両社に共同経営者として参画した。製造部門はホフマン&ティーデ(高級砂糖漬け果実・チョコレート・マジパン工場、サロッティブランド)[4]、店舗部門はフェリックス&サロッティという名称になった。

その後数年間で企業はさらに拡大した。従業員数は1889年に90人、1893年に162人に増加した。生産施設は隣接する敷地に拡張された。1903年にはサロッティ・チョコレート・カカオ株式会社(: Sarotti Chocoladen- und Cacao-Aktiengesellschaft)が設立され、従業員数は約1,000人になった[5]

サロッティの広告

二人の企業家は1911年と1912年に逝去した。フーゴ・ホフマンの息子マックス(: Max1878年生 - 1950年没)が経営を引き継いだ。1913年テンペルホーフドイツ語版に約2,000人の従業員を擁する新しい生産施設を開設した。しかし、第一次世界大戦中は生産が減少し従業員数は半分に減少した。 製品ラインナップは高級チョコレート製品、プラリーネココアマジパン製品、フォンダンからリキュールまで多岐にわたっていた。 1922年1月、建築家オスカー・O・ミュラー(: Oskar O. Müller)の設計により1911年冬から1912年にかけてわずか67日で建設された工場[6]が大火災により殆ど完全に焼失した[7]1929年スイス株式会社ネスレがサロッティAGの過半数株式を取得した[8]。同年にライン=マイン地方に進出し、マイン川沿いのハッタースハイム・アム・マインにあるチョコレート工場を買収した。恐慌の数年間を経て、企業全体は1930年代後半から第二次世界大戦まで非常に順調に発展した。

第二次世界大戦中、サロッティは生カカオの在庫が短期間分しかなかったため他の製品へ転換することになった。アメリカユダヤ人委員会によると、サロッティはナチス時代に強制労働者を雇用していたことが発覚した[9]。戦後、ベルリン工場の85%が解体された。

サロッティの株券

1945年以降、ヴィルヘルム・コッペ1896年生 - 1975年没、偽名 : ヴィルヘルム・ローマン<: Wilhelm Lohmann>)はボンのサロッティ・チョコレート工場の工場長として事業責任者となった。

彼は第二次世界大戦中、ナチス親衛隊上級大将、武装親衛隊の警察大将としてポーランド西部でのホロコーストおける責任者であった[10]

終戦から4年後になってようやく、サロッティは最初の生カカオ納入により本来の事業に復帰することができた。1949年にサロッティ本社はベルリンからハッターハイム ( : Hattersheim ) に移転した[5]。需要の高まりを受けて、ベルリンとハッターハイムの製造設備の更新・拡張が開始された。1962年にハッターハイム生産拠点でヨーロッパ最新鋭のチョコレート製造設備の一つの建設が始まり、1964年に稼働した。しかし1960年代末には、新製品の市場への投入が遅れたため売上減少に苦しんだ[11]

1998年にシュトルヴェルクドイツ語版有限会社がドイツ市場このブランドを買収した。シュトルヴェルクは2002年から2011年までバリーカレボー株式会社の傘下にあり、2011年7月にバリー・カレボーはシュトルヴェルクをサロッティブランドと共にベルギーの菓子メーカー、バロニードイツ語版に売却した[12]

ブランドロゴ

キャラクター

ベルリンのモーレン通りという創業地を記念して、50周年にあたる1918年にサロッティはサロッティ・ムーア人をブランドキャラクターに採用した。このキャラクターは、3人のムーア人がトレイを持つ姿で包装材に初めて登場した[13]。 サロッティ・ムーア人の表現は、画像コマーシャル広告が生まれつつあった植民地時代末期の最も有名な広告戦略の一つに数えられる。その際、多くのドイツ企業ではアフリカ人の図像が大いに人気を博した。彼らはしばしばその異国性で称賛される一方で、常に「劣等な存在」や「野蛮人」として描かれていた。この異国性は帝政ドイツの国民に自国の植民地を思い起こさせると同時に、購買欲を高めるための目玉としても機能していた[14]。2年後、グラフィックデザイナーのユリウス・ギプケンスドイツ語版に新しいロゴの開発が委託され、商標登録は1922年に行われた。

サロッティ・ムーア人は1960年代にテレビCMによって人気の広告キャラクターとなり、21世紀まで使い続けられた。召使いの人物像に人種差別的な固定観念を見る人も多く、しばしば批判された[15]。このため2004年に全製品が大幅にリニューアルされ、サロッティ・ムーア人はサロッティ・感覚の魔術師にキャラクター変更された。この人物は手にトレイや赤青の旗を持つ代わりに、金色の三日月に乗って空に星を投げており、さらに魔術師は金色の肌をしている[13]

脚注

  1. ^ BARONIE & n. d.
  2. ^ Bezirksamt 2025, pp. 2011–2012.
  3. ^ Sako & n. d.
  4. ^ (ドイツ語) Berliner Adressbuch. Teil I. ベルリン市. (1900). p. 601 
  5. ^ a b BBerghausen. “Der Sarotti-Mohr aus der Mohrenstraße” (ドイツ語). Archivspiegel des Berlin-Brandenburgischen Wirtschaftsarchivs. 2022年11月22日閲覧。
  6. ^ “Berliner Tageblatt und Handels-Zeitung”. (1922年1月25日). p. 15. http://dfg-viewer.de/show?id=9&tx_dlf%5Bid%5D=https://content.staatsbibliothek-berlin.de/zefys/SNP27646518-19220125-1-0-0-0.xml&tx_dlf%5Bpage%5D=15 2021年4月29日閲覧。 
  7. ^ Zeitbilder (Berlin) und Der Weltspiegel (Berlin) vom 29. Januar 1922
  8. ^ “Berlin: Bitterer Nachgeschmack”. Der Tagesspiegel. ISSN 1865-2263. https://www.tagesspiegel.de/berlin/bitterer-nachgeschmack-944158.html 2022年11月22日閲覧。 
  9. ^ Auszüge der AJC-Liste der Firmen, die Zwangsarbeiter beschäftigt haben sollen (Dokumentation)” (ドイツ語). Der Tagesspiegel. 2020年9月23日閲覧。
  10. ^ Hannah Arendt (2015). Eichmann in Jerusalem. Ein Bericht über die Banalität des Bösen (12th ed.). München, Berlin. p. 85 
  11. ^ “Am Markt vorbei”. Der Spiegel. (1969年5月5日). http://www.spiegel.de/spiegel/print/d-45741511.html 
  12. ^ Ein neues Zuhause für den Sarotti-Mohr”. Nürnberger Zeitung (2011年7月11日). 2011年8月7日閲覧。
  13. ^ a b Maritta Adam-Tkalec (2020年8月10日). “Liebling Sarotti-Mohr” (ドイツ語). Berliner Zeitung. https://www.berliner-zeitung.de/mensch-metropole/liebling-sarotti-mohr-li.97206 2022年11月22日閲覧。 
  14. ^ Joachim Zeller (2008). Bilderschule der Herrenmenschen. Berlin: Ch. Links Verlag. pp. 221 ff 
  15. ^ Rita Gudermann. “Leseprobe aus „Der Sarotti-Mohr. Die bewegte Geschichte einer Werbefigur“” (PDF; 165 kB). Ch. Links Verlag. 2011年8月7日閲覧。

参考文献

関連文献

外部リンク



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