サルゴン2世のウラルトゥ討伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2009/08/12 21:13 UTC 版)
「ルサ1世」の記事における「サルゴン2世のウラルトゥ討伐」の解説
紀元前722年に好戦的なサルゴン2世がアッシリア王に即位すると、ウラルトゥをめぐる情勢は悪化した。サルゴンは新都ドゥル・シャルキンを建設したが、その遺跡からは粘土板文書が発見されており、アッシリアが収集したウラルトゥに関する情報が詳しく伝えられている。即位当初は西方への遠征に従事したサルゴンは、紀元前718年に矛先を北方の宿敵ウラルトゥに向けた。まずウルミア湖周辺地域に繰り返し出兵してウラルトゥに服属するマンナエ人を攻撃し、アッシリア側への寝返りに努めた。ルサはいったんアッシリアに服属したマンナエ人を再びウラルトゥに服属させ、こうした状況が3年続いた。 紀元前714年、サルゴンはルサが北方のキンメリア人討伐に失敗したという報せを受け、出陣を決意した。サルゴンはウルミア湖地方に進撃したが、そこでルサ率いるウラルトゥ軍がアッシリア軍の背後を突くべく進軍中であるという情報を得た。サルゴンは裏をかいてウラルトゥ軍の野営地を夜襲し、これを潰走させた。サルゴンは北に進んでウルフ市を破壊しヴァン湖に到達した。偵察の結果サルゴンは首都トゥシュパを素通りしてアルギシュティヒニリとウアイアスを攻略した。ドゥル・シャルキンに凱旋したサルゴンは、アッシリアの攻撃を恐れたルサが財物をトゥシュパからムサシルに移したという情報を得た。ウラルトゥの宗教中心地であったムサシルは、険しい山中にあって安全と思われたためである。サルゴンはすかさず軍を発し、森に覆われた険しいザグロス山脈を越えてムサシルを攻撃し、財物を略奪してウラルトゥの主神ハルディの神殿を辱め、これを破壊した。 ムサシル陥落の報に衝撃を受け絶望したルサは、サルゴンの伝えるところによれば、髪を振り乱して胸に手を当てて絶叫し、自ら剣をとって自殺したという。ムサシル陥落はウラルトゥの衰退を決定的にする出来事となった。ルサの跡は息子のアルギシュティ2世が継ぎ、以後ウラルトゥは北方の新領土であるトランスコーカサス地方に活路を見出すことになるのだが、北方にはキンメリアやスキタイといった遊牧民の影が迫っていた。
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