アルギシュティ2世とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 政治家 > 統治者・君主 > ウラルトゥ王 > アルギシュティ2世の意味・解説 

アルギシュティ2世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/30 10:15 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
アルギシュティ2世
ウラルトゥ
在位 紀元前714年 - 紀元前685年

死去 紀元前685年
子女 ルサ2世
父親 ルサ1世
テンプレートを表示
アルギシュティ2世時代のウラルトゥ(黄色)とアッシリア(紫)の版図

アルギシュティ2世Argišti II)は、ウラルトゥの王。在位:紀元前714年 - 685年

来歴

ウラルトゥ王ルサ1世の息子。紀元前714年、アッシリア帝国のサルゴン2世に敗れた父が死んだため(自殺ともいわれる)、王位を継いだ。アッシリアの攻撃でウラルトゥの国力は衰退し、主神ハルディ信仰の中心地だったムサシルが攻略されたことで、心理的にも大打撃を受けた。勝者であるアッシリアには軍隊の領内通過、また鉱山の採掘権や森林の伐採権を許し、さらには農産物や金属などの貢納も課せられていたと思われる。学者の中にはこの時代のウラルトゥをアッシリアの属国とみなす意見もある。アッシリアとは緊張を孕みながらも一応平和な関係を維持できることになった。

こうした情勢の中、アルギシュティは王国の活路を北方のトランスコーカサス地方に求めた。またアルギシュティがヴァン湖の北岸地方で灌漑水路を整備して果樹園を作り、東方にも遠征したことがその碑文に記されている。イラン領内のアゼルバイジャン地方ではアルギシュティの残した碑文が発見されている。アルギシュティがカスピ海地方にまで遠征したかは議論が分かれているが、考古学調査の成果に拠ればウルミア湖以遠にウラルトゥの勢力が及んでいたとは考えにくい。

紀元前705年にサルゴン2世が死んでセンナケリブが王位につき、アッシリアとウラルトゥの関係はより安定したが、南下する騎馬民族キンメリア人の脅威もあり、ウラルトゥの勢威が戻ることはなかった。アルギシュティの跡は息子のルサ2世が継いだ。

文献

  • Пиотровский Б. Б. Ванское царство (Урарту), Издательство Восточной литературы, Москва, 1959
(邦訳)『埋もれた古代王国の謎 幻の国ウラルトゥを探る』(ボリス・ボリソヴィッチ・ピオトロフスキー著 加藤九祚訳 岩波書店) ISBN 9784000001601 (4000001604)
  • Меликишвили Г. А. Урартские клинообразные надписи, Издательство АН СССР, Москва, 1960
  • Арутюнян Н. В. Биайнили (Урарту), Издательство Академии наук Армянской ССР, Ереван, 1970
先代:
ルサ1世
ウラルトゥ王
紀元前714年 - 685年
次代:
ルサ2世




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アルギシュティ2世」の関連用語

アルギシュティ2世のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アルギシュティ2世のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアルギシュティ2世 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS