サピエンスとグラックス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 02:55 UTC 版)
「ガイウス・ラエリウス・サピエンス」の記事における「サピエンスとグラックス」の解説
スキピオ・アエミリアヌスがヒスパニアに出征中の紀元前133年、ローマでは護民官ティベリウス・センプロニウス・グラックス(グラックス兄)が過激な改革を提唱していた。野心的な政治家であるグラックスは、マンキヌスがヌマンティアと結んだ講和条約を主導した人物であったが、マンキヌスと異なり起訴はされていなかった。しかし、この頃から義兄(姉の夫)でグラックスの元老院入を推薦したスキピオ・アエミリアヌスと距離を置くようになっていた。グラックスは「反スキピオ派」と同盟して、かつてサピエンスが実施しようとしてできなかった、土地改革問題に乗り出した。当時ローマでは第二次ポエニ戦争によって獲得した国有地をローマ市民に貸し出したが、その多くは奴隷を多数所有、あるいは新たに購入できる富裕層が借り受けた。そして富裕層は実質上の大土地所有者となっていた(ラティフンディウム)。「センプロニウス法」は、個人が借りる国有地を500ユゲラ(およそ310エーカー)に制限し、それを超えた分を実際に住んでいる農民たちに少ない賃貸料で再配分しようとしたものである。 当初、サピエンスをはじめとするスキピオ・サークルはグラックスを支持していたが、やがて(おそらくグラックスが彼に反対した同僚マルクス・オクタウィウスを解任した後に)グラックスの急進的過ぎる方法に不満を持ち、改革自体には共感を持ちながらも、法案に対しては反対に回った。結局グラックスは殺害されることになる。翌紀元前132年 、サピエンスは故人を調査し、彼の支持者を処罰するために元老院によって結成された臨時委員会のメンバーとなった。グラックスへ助言を行っていた哲学者ガイウス・ブロッシウスは自分のことは自分のことを大目に見てほしいとサピエンスの所に懇願に来てそのわけを説明した。キケロはこの際のサピエンスの言を、以下のように伝えててる。 ブロッシウスはティベリウス・グラックスを高く評価していたので、彼の言うことは何でも実行すべきだと思ったと言うのだ。私は訪ねた。「もし彼が君にカピトリウムに火をつけろと言ってもかね。」ブロッシウスは「彼はそんなことを言うわけがないが、仮にそう言ったら私はそのとおりにする」と答えたのだ。何という邪悪な考えだろうか。ところが彼はその言葉以上のことをやったのだ。彼は無謀なティベリウス・グラックスに従うどころか、自分が先頭に立った。彼はグラックスの熱狂の仲間になるのだけではなく自分が指導者になったのだ。そしてあのような狂気の沙汰を行った後に、尋問が怖くてアシア属州に逃げ、敵のもとに身を寄せたのだ。したがって、友人のために間違いを犯しても言い訳にはならない。なぜなら、誠実な人だと思って友情を育ててきたのに、もし誠実さを捨ててしまったら、友情が続くことは難しいからである。 キケロ『友情について』、37
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