コムーネの非常事態
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/25 06:43 UTC 版)
表面下で、いくつもの重要な出来事が起きたことは、パドヴァの後世の発展のための形成であることを証明していた。 11世紀初頭、パドヴァ市民は通常議会または立法議会、クレデンツァ(credenza)または執行委員から構成される組織をつくった。 12世紀、市民はバッキリョーネ川とブレンタ川の水運権をめぐってヴェネツィア=ヴィチェンツァと戦争状態となった。これは、同盟者を求めずとも自力で戦えるほどの力をパドヴァが蓄えていたことを意味した。 有力貴族であるカンポサンピエロ家、エステ家、ダ・ロマーノ家が台頭し始め、パドヴァ地域を分割した。自らの自由を守るためにパドヴァ市民は自分たちでポデスタ(en、行政長官)を選ぶことを余儀なくされた。彼らの最初の選択で、エステ家の一員が選ばれた。1174年、大火がパドヴァを破壊し尽くした。これで事実上の市の再建が始まった。 ロンバルディア同盟の同時代の快進撃が、パドヴァを強化するのを助けた。結果、1236年にパドヴァと周辺都市で、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は自らの専制的な代理人としてエッツェリーノ・ダ・ロマーノ(彼は住民に対し恐ろしい暴行を日常的に行っていた)を擁立するのに少々困難が伴うことを知った。教皇アレクサンデル4世のため、エッツェリーノは市民の血を流すことなく1256年6月に免職した。 パドヴァは平穏な繁栄の時代を謳歌した。聖人を祀る大聖堂建設が始まった。パドヴァはヴィチェンツァをも支配下においた。パドヴァ大学は1222年に創立され、13世紀に繁栄した。 13世紀のパドヴァの発展が、ヴェローナ領主カングランデ1世・デッラ・スカラとの対立を、最終的にもたらした。1311年、パドヴァはヴェローナを譲渡しなければならなかった。 1318年、ヤコポ・ダ・カッラーラがパドヴァ領主に選ばれた。1318年から1405年まで、輝かしいカッラーラ家出身の9人がパドヴァ領主となった(1328年から1337年までスカリジェリ家の事実上の支配、そして1388年から1390年までジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティが支配した時期を除く)。カッラーラ家時代は、定期的な戦争のために安息のない長い時代であった。1387年、パドヴァに雇われたジョン・ホークウッドが、ジョヴァンニ・オルデラッフィ率いるヴェローナと戦ったカスタニャーロの戦いで勝利した。 カッラーラ家時代は、ヴィスコンティ家の強大化と、ヴェネツィア共和国の重要性が増したことでついに終焉を迎えた。
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