ゲーム情報誌として
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「マイコンBASICマガジン」の記事における「ゲーム情報誌として」の解説
1983年11月号から、アーケードゲーム等の情報を扱う「スーパーソフトマガジン」という別冊付録が付くようになる。ナムコの開発室から提供されたゼビウスに関する様々な設定情報などは、現在でも貴重な資料としての価値をもつ。パソコンゲームの攻略法が載っていた時期もあり、山下章、手塚一郎などが執筆していた。巻末には全国のゲームセンター100店舗に及ぶ協力店から寄せられた「ハイスコアランキング」(当時は通信機能搭載のゲーム機は無かった)が掲載され、腕自慢にわざわざ協力店に出向いてハイスコアを叩き出すゲーマーもいた程である。 当時としては他に類を見ない濃い内容のコンピュータビデオゲーム情報誌の側面を持っており、本誌よりむしろ別冊付録を目的として買う読者も出現した。しかし付録だけを万引きされる問題が発生したため、1985年1月号より「スーパーソフトコーナー」として巻末に一体化することになる。なお、アダルトゲームに関する情報を一切掲載しないのも特徴の一つである(例外として、販売店の広告内では当たり障りのない範囲でタイトル名や画面写真、パッケージ写真が掲載されることはあった)。 その後もパソコン・コンシューマー・アーケードを問わずコンピューターゲーム関連の記事が幅広く掲載され、パソコン雑誌でありながら、総合的なゲーム情報誌としての一面がより色濃くなった。ゲーム関連の記事のページ数がプログラミングなど技術系の記事を上回った時期や、表紙の写真がパソコンではなくゲーム機やアーケードゲーム基板だった号もあった。 広告掲載や関連記事掲載、また電波新聞社(後のマイコンソフト)が発売しているアーケードゲームからの移植パソコン向けゲームソフトウェアの開発といった事情にも絡み、ナムコやセガ・タイトーといった大手のアーケードゲームメーカーとの間に築かれた関係も深く、精力的にメーカー内の開発者を交えて、内部開発資料から起こした高品質のゲーム紹介記事を掲載するなどしていた。しかし、次第にゲームメーカーの群雄割拠から、全てのゲームメーカーを網羅しきれなくなり、1980年代末から1990年代初頭には、他社ゲーム専門誌に読者を奪われる結果となった。 1989年5月号から1990年3月号まで、「レッツプレイ!コンピュータ・ミュージック」としてDTMに特化した別冊付録が添付され、1990年4月にはComputer Music Magazineとして独立している。その後1999年6月号から再度別冊付録となった後、同誌は同年10月に休刊した。
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