グルムバッハ事件
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1563年、ヴュルツブルク司教と所領問題をめぐり対立したヴィルヘルム・フォン・グルムバッハがヴュルツブルクを奇襲し、占拠した。これに対して皇帝フェルディナンド1世はグルムバッハに帝国追放令を発した。しかし、これを承けたフランケン・クライスは、2人の公示事項担当諸侯であるバンベルク司教とブランデンブルク辺境伯との意見調整が付かず、具体的な行動を起こすことができなかった。また、隣のシュヴァーベン・クライスでは1564年1月にクライス軍事評議会を開催したが、この時にはすでに皇帝からマインツ大司教を経由して帝国代表者会議が招集されており、軍事評議会を義務づけた帝国執行令の機動力が問題となった。ただし、帝国執行令に従えば、帝国代表者会議の開催要請はフランケン・クライスの長官・補佐官からマインツ大司教になされるべきであり、厳密には違法行為であった。皇帝がこの問題に積極的に介入したのには、この機会にクライスに対する皇帝の発言権を強化しようと言う狙いがあった。この会議では、 緊急時には長官の独断でクライス等族に援助要請ができる 援助の上限を評価額に基づき2単位分に引き上げる 帝国等族全体の負担で1500の騎兵を皇帝が任用する。ただしこれはグルムバッハ事件対応のための緊急措置であり、期間は9か月間とする 新たに兵を募る時にはクライス長官に届け出ること といった改訂を行った。皇帝は3については常備軍を、4については皇帝への届け出を、さらには帝国代表者会議を皇帝が招集できるような改革を望んでいたがかなわず、むしろクライス長官の権限を強化する結果となったのである。 グルムバッハの降伏を承けて開催された1566年の帝国議会では、改めてグルムバッハの帝国追放が確認され、オーバーザクセン、ニーダーザクセン、フランケン、ヴェストファーレンの4クライスと先に認められた皇帝麾下の騎兵がその執行にあたると定めた。その上で、 平和破壊活動にさらされているクライスが機能していない場合、隣接するクライスの長官は、当該クライスからの援助要請なしに事件に対処することができること 援助の上限を評価額に基づき3単位分に引き上げること と、クライス長官の権限をさらに拡大している。
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