クライファート
パトリック・クライファート
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/16 23:10 UTC 版)
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この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。 (2020年11月)
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|---|---|---|---|---|---|---|
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ポルトガルWeb Summit 2024にて
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| 名前 | ||||||
| 本名 | パトリック・ステーフェン・クライファート Patrick Steven Kluivert |
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| 愛称 | 黒いファン・バステン、ドン・キホーテ、気まぐれの天才 | |||||
| カタカナ | パトリック クライファート | |||||
| ラテン文字 | Patrick Kluivert | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 | |
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| 生年月日 | 1976年7月1日(49歳) | |||||
| 出身地 | |
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| 身長 | 191cm[1] | |||||
| 体重 | 81kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | FW(CF) | |||||
| 利き足 | 右足 | |||||
| ユース | ||||||
| 1983-1984 | |
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| 1984-1994 | |
|||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1994-1997 | |
70 | (39) | |||
| 1997-1998 | |
27 | (6) | |||
| 1998-2004 | |
182 | (90) | |||
| 2004-2005 | |
25 | (6) | |||
| 2005-2006 | |
10 | (1) | |||
| 2006-2007 | |
16 | (3) | |||
| 2007-2008 | |
13 | (4) | |||
| 通算 | 343 | (149) | ||||
| 代表歴 | ||||||
| 1990-1991 | |
2 | (0) | |||
| 1991-1992 | |
10 | (2) | |||
| 1992 | |
3 | (2) | |||
| 1992-1994 | |
20 | (6) | |||
| 1996 | |
3 | (0) | |||
| 1994-2004[2] | |
79 | (40) | |||
| 監督歴 | ||||||
| 2008-2010 | |
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| 2010 | |
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| 2010-2011 | |
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| 2011-2012 | |
|||||
| 2012-2014 | |
|||||
| 2015-2016 | |
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| 2016 | |
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| 2016-2017 | |
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| 2018-2019 | |
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| 2021 | |
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| 2023 | |
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| 2025 | |
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| 1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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パトリック・ステーフェン・クライファート(Patrick Steven Kluivert、1976年7月1日 - )は、オランダ・アムステルダム出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード(センターフォワード)。元オランダ代表。現在はサッカーインドネシア代表の監督を務める。
オランダ語読みに近いクライフェルトと表記されることもある。
初期の経歴
1976年7月1日、パトリック・クライファートはオランダの首都アムステルダムに生まれた。スリナムのCalcutta出身の父親はプロサッカー選手であり、母親はキュラソー島出身である[3]。ストリートサッカーで技術を習得し、Schellingwoude というクラブに1年間通った後、7歳の時にアヤックス・アムステルダムの下部組織に入団した。この頃はディフェンダーなどのポジションでもプレーしていた。技術の高さやインテリジェンス、スピードなどが持ち味であったが、調子に波がありすぎることが欠点だった[4]。
クラブ経歴
- アヤックス
1994年8月21日、18歳の時にトップチームのルイス・ファン・ハール監督に見出され、オランダ・スーパーカップのフェイエノールト戦でデビューした。この試合でトップチーム初得点を決めると、デビューシーズンの1994-95シーズンは高い得点能力を発揮し、デニス・ベルカンプ(93年移籍)、エドガー・ダーヴィッツ、クラレンス・セードルフ、エトヴィン・ファン・デル・サールなど同じ下部組織出身の若手選手たちとともにUEFAチャンピオンズリーグで旋風を巻き起こし、ついには優勝を果たした。ウィーンで行われた決勝のACミラン戦では途中出場して85分に決勝点を決め、クラブにとって22シーズンぶりとなる欧州でのタイトルを獲得した。1995年夏にはオランダ・スーパーカップとUEFAスーパーカップというふたつのスーパーカップを制覇し、1995年冬のインターコンチネンタルカップではグレミオFBPAをPK戦の末に破って世界一の座に輝いた。1995-96シーズンにはエールディヴィジ2連覇を果たした。
- ACミラン
1997年、ボスマン・ルールを行使してイタリア・セリエAのACミランに移籍した。ユヴェントスとの親善試合で鮮烈なデビュー弾を決めて見せたが、1997-98シーズンはわずか6得点に終わった。1997年、激しい自動車事故を起こし、同乗していた演出家のカートン・パットマンが死亡した。クライファートは起訴され、運転免許の剥奪と社会奉仕活動を課された。
- FCバルセロナ
1998年8月28日、移籍市場が閉まる直前にスペイン・リーガ・エスパニョーラのFCバルセロナと4年契約を結んだ[5]。移籍金は875万ポンド。アヤックスで指導を受けたファン・ハール監督と再会し、1998-99シーズンのリーグ戦を制した。1999-2000シーズンにはリーグ戦3連覇を逃したものの、チーム内得点王となる15得点を挙げた[6]。1998-99シーズンからはリバウド、ルイス・フィーゴと3トップを組むことが多く、2001-02シーズンにはリバウド、ハビエル・サビオラと3トップを組むことが多かった。トップ下としてプレーしたこともある。1998-99シーズンから2002-03シーズンまで5シーズン連続でリーグ戦15得点以上を挙げたが、2003年夏にフランク・ライカールト監督が就任して脱オランダ化を図り、パリ・サンジェルマンFCからロナウジーニョが加入したこともあって出場機会が減少した。2003-04シーズンはリーグ戦21試合の出場にとどまり、FCバルセロナ移籍後最少となる8得点に終わった。FCバルセロナでは6シーズンでリーグ戦182試合に出場して90得点を挙げた。2004年3月4日、FIFA100に選出された。
- ニューカッスル・ユナイテッドFC
2004年7月21日、イングランド・プレミアリーグのニューカッスル・ユナイテッドFCに移籍し、チームの象徴であるアラン・シアラーとコンビを組んだ。ニューカッスルと契約した理由として、FCバルセロナ時代にUEFAチャンピオンズリーグの試合でニューカッスルと対戦し、その際に強い感情を受けたためだとしている。FAカップでは、2005年2月20日のチェルシーFC戦 (1-0) [7] や3月13日のトッテナム・ホットスパーFC戦 (1-0) [8] などで重要かつ華麗な得点を決め、ともに1-0で勝利している。2004-05シーズンには公式戦通算13得点を挙げたが、リーグ戦では14位に沈み、契約延長には至らなかった。
- バレンシアCF
2005年夏、スペインのバレンシアCFに移籍した。2005-06シーズンは絶えず負傷に悩まされて202分間しか出場できず、2006年7月には移籍先を探すことを許された。
- PSVアイントホーフェン
2006年夏には古巣アヤックスへ復帰する噂もあったが、移籍市場終了直前の8月31日にアヤックスのライバルであるPSVアイントホーフェンと1年契約を結んだ。アヤックスの時と同じようにフェイエノールト戦 (2-1) で途中出場してデビューすると、ライバルクラブ出身のクライファートに対してスタンディングオベーションが贈られた。2006-07シーズンは前半戦だけで2度の負傷に悩まされ、出場機会を阻まれた。フィリップス・スタディオンで行われたアヤックス戦では古巣相手に得点したが、古巣に対しての愛情からゴールセレブレーションを拒否した。2007年7月、契約満了によりPSVを離れた。
- LOSCリール・メトロポール
2007年7月25日、イングランドのシェフィールド・ウェンズデイFCのトライアル受験に誘われたが、これを拒否し[9]、フランス・リーグ・アンのリールと契約を結んだ[10]。若いチームに自身の経験を伝え、先発出場は10試合だったが4得点を挙げ、価値あるアシストを何度も決めてチームに貢献した。2008年5月、クロード・ピュエル監督に対してチームを離れる意向を示し、現役引退を発表した。
代表経歴
U-15、U-16、U-17オランダ代表に選ばれた経験がある[4]。
- UEFA EURO 1996
1995年にオランダA代表としてデビューし、UEFA EURO 1996出場メンバーにも選ばれたが、膝の負傷で満足にプレーできなかった。それでもグループリーグのイングランド戦ではデニス・ベルカンプのアシストから得点し、スコットランドを得点数の差で上回って決勝トーナメント進出を決めた。準々決勝のフランス戦はPK戦の末に敗れ、大会からの敗退が決まった。
- 1998 FIFAワールドカップ
1998 FIFAワールドカップにも出場したが、ベルギー戦ではロレンツォ・スターレンスに挑発され、肘打ちを見舞って退場処分を受けた。準々決勝のアルゼンチン戦では改心し、先制点を挙げて準決勝進出に貢献した。準決勝のブラジル戦でも輝きを見せ、ヘディングで同点ゴールを挙げたが、PK戦で敗れた。
- UEFA EURO 2000
UEFA EURO 2000にも出場し、準々決勝のユーゴスラビア戦 (6-1) ではハットトリックを達成して相手を粉砕した。準決勝のイタリア戦で、オランダ代表は90分の間に2度もペナルティキックを蹴る機会があったが、2本とも外し(1本はクライファート)、PK戦にもつれ込んだ。PK戦でもオランダ代表の選手はなかなかゴールネットを揺らせず、2年前のブラジル戦や4年前のフランス戦と同じくPK戦の末に敗れた。自身は大会通算5得点を挙げ、ユーゴスラビア代表のサボ・ミロシェビッチとともに大会得点王に輝いた。
- UEFA EURO 2004
UEFA EURO 2004にもやはり、背番号9番を付けて臨んだ。しかし、頑固なディック・アドフォカート監督はクライファートに出場機会を与えず、オランダ代表のフィールドプレーヤーとして唯一、試合に出場することがなかった選手であった。UEFA EURO 2004後に就任したマルコ・ファン・バステン監督からは2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選には1試合も招集されなかった。
指導者経歴
2008年4月29日、オランダメディアはクライファートがオランダサッカー協会 (KNVB) の指導者養成コースに参加する可能性があると報じた[11]。2008年7月18日、Goal.comはクライファートがAZアルクマールのコーチングスタッフの一員となる可能性を報じ、2009年3月21日にはサッカーAMのインタビューにてAZアルクマールでフォワードを指導している事を認めた。2010年1月24日、オーストラリア・Aリーグのブリスベン・ロアーFCで2週間限定で指導を行うことを発表した[12]。同年5月19日、現役復帰の可能性があり得ないことをジャーナリストに伝えた[13]。2010年8月、NECナイメヘンのアシスタントコーチに就任し、チームのフォワードを指導した。2011年6月にはFCトゥウェンテのユースチームの監督に就任した[14]。また2012年夏よりオランダ代表のコーチも兼任し2014年まで務めた。
2015年3月5日、母親の故郷であるキュラソー島代表の監督(当初の役職はテクニカル・アドバイザー)に就任した[15]。
キュラソーはクライファートのもとでワールドカップ予選第1ラウンドと第2ラウンドを突破したが、第3ラウンドでエル・サルヴァドルに敗戦して敗退。しかし好成績を残したことでキュラソーのフットボール協会は2016年2月23日にクライファートを正式に代表監督として迎え入れると発表した。
2016年5月6日にアヤックス・アカデミーの監督に2年契約で就任[16]。しかし仕事に入る前に2016年7月にその契約を解除してパリ・サンジェルマンFCのフットボールディレクターに就任することが発表された[17][18]。
2023年6月、アダナ・デミルスポルの監督に就任した。
2025年1月8日、申台龍の後任としてインドネシア代表監督に就任。契約期間は2年で延長オプションが付帯する。また、アレックス・パストールとデニー・ランツァートのオランダ人指導者2名とインドネシア人指導者2名がアシスタントコーチとしてスタッフ入りすることも決定した[19]。2026 FIFAワールドカップ・アジア4次予選ではサウジアラビアとイラク相手に敗れワールドカップ出場を逃した[20]。
人物
- 最初の妻との間に3人の息子がいる。2007年9月24日、再婚相手との間に4人目となる息子が生まれた。
- 次男のジャスティン・クライファートもプロのサッカー選手である。
- オランダ代表のチームメイトであったルート・ファン・ニステルローイとは生年月日(1976年7月1日)と身長・体重が一緒である[21]。
個人成績
| クラブ | シーズン | リーグ戦 | 国内カップ | 国際大会 | その他 | 合計 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ディヴィジョン | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
| アヤックス | 1994-95 | エールディヴィジ | 25 | 18 | 1 | 1 | 10 | 2 | 1 | 1 | 37 | 22 |
| 1995-96 | 28 | 15 | 2 | 1 | 8 | 5 | 4 | 2 | 42 | 23 | ||
| 1996-97 | 17 | 6 | 1 | 0 | 4 | 2 | - | 22 | 8 | |||
| クラブ通算 | 70 | 39 | 4 | 2 | 22 | 9 | 5 | 3 | 101 | 53 | ||
| ミラン | 1997-98 | セリエA | 27 | 6 | 6 | 3 | - | - | 33 | 9 | ||
| バルセロナ | 1998-99 | リーガ・エスパニョーラ | 35 | 15 | 3 | 1 | - | - | 38 | 16 | ||
| 1999-00 | 26 | 15 | 2 | 1 | 14 | 7 | 2 | 2 | 44 | 25 | ||
| 2000-01 | 31 | 18 | 5 | 2 | 12 | 5 | - | 48 | 25 | |||
| 2001-02 | 33 | 18 | 0 | 0 | 17 | 7 | - | 50 | 25 | |||
| 2002-03 | 36 | 16 | 0 | 0 | 15 | 5 | - | 51 | 21 | |||
| 2003-04 | 21 | 8 | 2 | 0 | 3 | 2 | - | 26 | 10 | |||
| クラブ通算 | 182 | 90 | 12 | 4 | 61 | 26 | 2 | 2 | 257 | 122 | ||
| ニューカッスル・ユナイテッド | 2004-05 | プレミアリーグ | 25 | 6 | 6 | 2 | 6 | 5 | - | 37 | 13 | |
| バレンシア | 2005-06 | リーガ・エスパニョーラ | 10 | 1 | 1 | 0 | 5 | 1 | - | 16 | 2 | |
| PSV | 2006-07 | エールディヴィジ | 16 | 3 | 2 | 0 | 3 | 0 | - | 21 | 3 | |
| リール | 2007-08 | リーグ・アン | 13 | 4 | 1 | 0 | - | - | 14 | 4 | ||
| キャリア通算 | 343 | 149 | 32 | 11 | 97 | 41 | 7 | 5 | 479 | 206 | ||
代表歴
出場大会
試合数
- 国際Aマッチ 79試合 40得点(1994年-2004年)[22]
| オランダ代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1994 | 1 | 0 |
| 1995 | 5 | 3 |
| 1996 | 5 | 1 |
| 1997 | 5 | 2 |
| 1998 | 11 | 7 |
| 1999 | 8 | 4 |
| 2000 | 14 | 12 |
| 2001 | 9 | 4 |
| 2002 | 6 | 3 |
| 2003 | 11 | 4 |
| 2004 | 4 | 0 |
| 通算 | 79 | 40 |
得点
出典[23]
| # | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 試合概要 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1. | 1995年3月29日 | 4-0 | 4-0 | UEFA EURO '96予選 | ||
| 2. | 1995年12月13日 | 0-1 | 0-2 | |||
| 3. | 0-2 | |||||
| 4. | 1996年6月18日 | 1-4 | 1-4 | UEFA EURO '96 | ||
| 5. | 1997年3月29日 | 1-0 | 4-0 | 1998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選 | ||
| 6. | 1997年9月6日 | 2-0 | 3-1 | |||
| 7. | 1998年2月24日 | 0-1 | 2-3 | 親善試合 | ||
| 8. | 0-2 | |||||
| 9. | 1998年6月1日 | 3-1 | 5-1 | |||
| 10. | 1998年6月5日 | 3-0 | 5-1 | |||
| 11. | 4-0 | |||||
| 12. | 1998年7月4日 | 1-0 | 2-1 | 1998 FIFAワールドカップ準々決勝 | ||
| 13. | 1998年7月7日 | 1-1 | 1-1 (PK:4-2) |
1998 FIFAワールドカップ準決勝 | ||
| 14. | 1999年6月5日 | 2-1 | 2-2 | 親善試合 | ||
| 15. | 1999年9月4日 | 3-2 | 5-4 | |||
| 16. | 4-4 | |||||
| 17. | 5-4 | |||||
| 18. | 2000年2月23日 | 1-0 | 2-1 | |||
| 19. | 2000年3月29日 | 2-1 | 2-2 | |||
| 20. | 2-2 | |||||
| 21. | 2000年5月27日 | 2-0 | 2-1 | |||
| 22. | 2000年6月4日 | 2-1 | 3-1 | |||
| 23. | 3-1 | |||||
| 24. | 2000年6月16日 | 0-1 | 0-3 | UEFA EURO 2000 | ||
| 25. | 2000年6月21日 | 1-1 | 2-3 | |||
| 26. | 2000年6月25日 | 1-0 | 6-1 | UEFA EURO 2000準々決勝 | ||
| 27. | 2-0 | |||||
| 28. | 4-0 | |||||
| 29. | 2000年10月7日 | 0-4 | 0-4 | 2002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選 | ||
| 30. | 2001年3月24日 | 0-1 | 0-5 | |||
| 31. | 2001年3月28日 | 0-2 | 2-2 | |||
| 32. | 2001年4月25日 | 3-0 | 4-0 | |||
| 33. | 2001年6月2日 | 2-3 | 2-4 | |||
| 34. | 2002年2月13日 | 1-0 | 1-1 | 親善試合 | ||
| 35. | 2002年9月7日 | 2-0 | 3-0 | UEFA EURO 2004予選 | ||
| 36. | 2002年11月20日 | 0-1 | 1-3 | 親善試合 | ||
| 37. | 2003年4月30日 | 1-0 | 1-1 | |||
| 38. | 2003年6月7日 | 2-0 | 2-0 | UEFA EURO 2004予選 | ||
| 39. | 2003年9月6日 | 2-1 | 3-1 | |||
| 40. | 2003年10月11日 | 1-0 | 5-0 |
タイトル
選手
クラブ
- アヤックス・アムステルダム
- オランダ・スーパーカップ 1994, 1995
- エールディヴィジ 1994-95, 1995-96
- UEFAチャンピオンズリーグ 1994-95
- UEFAスーパーカップ 1995
- インターコンチネンタルカップ 1995
- FCバルセロナ
- プリメーラ・ディビシオン 1998-99
- PSVアイントホーフェン
- エールディヴィジ 2006-07
個人
- オランダ年間若手最優秀選手賞 1995
- ブラヴォー賞 1995
- UEFA EURO 2000得点王
- FIFA100
指導者
クラブ
- ヨング・トゥウェンテ
- Beloften Eredivisie 2011–12
脚注
- ^ “Patrick Kluivert - Premier League”. 2023年1月2日閲覧。
- ^ “Patrick Kluivert - Goals in International Matches” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation
- ^ Dutch bio 公式サイト
- ^ a b English bio 公式サイト
- ^ Hicks, Danny (1998年8月30日). “Nou Camp becomes Little Holland”. London: The Independent 2010年8月4日閲覧。
- ^ F.C. Barcelona - Squad season 1999-2000 LFP.es
- ^ “Newcastle 1-0 Chelsea”. London: BBC. (2005年2月20日) 2009年9月2日閲覧。
- ^ “Newcastle 1-0 Tottenham”. London: BBC. (2005年3月13日) 2009年9月2日閲覧。
- ^ Owls fail to woo striker Kluivert BBC Sport
- ^ Ligue 1 - Lille announce Kluivert signing - Yahoo! Eurosport UK
- ^ Kluivert lines up coaching course Team Talk.com
- ^ Kluivert joins coaching staff at Brisbane Roar ESPN Soccernet
- ^ Kluivert quits football career definitively Voet Balcentraal.nl
- ^ クライファート氏がトゥエンテへ Goal.com、2011年6月10日
- ^ クライファート、母親の故郷キュラソーの代表監督に就任決定 Qoly、2015年3月6日
- ^ アヤックス、来季からクライファート&ハイティンガがユースで指導 Goal.com 2016/05/07
- ^ PATRICK KLUIVERT JOINS THE CLUB AS DIRECTOR OF FOOTBALL psg.fr July 14, 2016
- ^ 元オランダ代表クライファート氏、パリ・サンジェルマンのフットボールディレクターに就任 Goal.com 2016/07/15
- ^ (インドネシア語)『Patrick Kluivert Resmi Menjadi Pelatih Timnas Indonesia』(プレスリリース)インドネシアサッカー協会、2025年1月8日。2025年1月8日閲覧。
- ^ “インドネシアの88年ぶりW杯消滅、UAEが”下剋上”に王手…残り「2.5枠」争うアジアプレーオフは第2戦終了”. ゲキサカ (2025年10月12日). 2025年10月12日閲覧。
- ^ Kerngezonde zoon voor Patrick Kluivert en Rossana - Telegraaf.nl
- ^ パトリック・クライファート - National-Football-Teams.com
- ^ Interlands en doelpunten van Patrick Kluivert voetbalstats 2018年5月8日閲覧
外部リンク
- Patrick Kluivert.com
- パトリック・クライファート - National-Football-Teams.com
- パトリック・クライファート - FootballDatabase.eu
- パトリック・クライファート - WorldFootball.net
- パトリック・クライファート - Transfermarkt.comによる選手データ
- パトリック・クライファート - Transfermarkt.comによる指導者データ
- パトリック・クライファート - FIFA主催大会成績
- パトリック・クライファート - UEFA
- パトリック・クライファート - レキップ
- パトリック・クライファート - playmakerstats.com
- パトリック・クライファート - BDFutbol.com
- Patrick Kluivert at PSV by Tvw
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- クライファートのページへのリンク