クマン人、教会との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 06:58 UTC 版)
「ラースロー4世 (ハンガリー王)」の記事における「クマン人、教会との関係」の解説
1278年9月22日に教皇ニコラウス3世はラースローの王権の回復を支援するためにフェルモ司教フィリッポをハンガリーに派遣し、1279年初頭に教皇特使(英語版)がハンガリーに到着する。特使の調停によってラースローはケーセギ家と和約を締結するが、フィリッポはハンガリーの大部分のクマン人が異教徒だと感じ取った。彼はクマン人の族長から異教の習慣を放棄する儀礼的な誓約を取り付け、ラースローにクマンの族長たちに誓約を遵守させるよう迫った。フィリッポの要求に応じて、テーテーニー(英語版)で開催された集会で、クマン人に伝統的なテント型の住居を捨てて「地面に建つ家」に移住することを規定する法律が可決される。しかし、クマン人は法に従わず、クマン人の血を引くラースローも法律を強制しなかった。ラースローへの報復としてフィリッポは彼を破門し、1279年10月にハンガリーに聖務禁止令(英語版)が発せられた。ラースローはクマン人に加わり、聖座に訴え出たが、教皇は彼への赦免を拒絶した。 1280年1月初頭にラースローの意を受けたクマン人は司教フィリッポを捕らえ、投獄した。だが、ラースローはトランシルヴァニアのヴォイヴォダであるフィンタ・アバ(英語版)によって捕らえられ、ロラーンド・ボルシャ(英語版)に引き渡される。事件から2か月以内にラースローとフィリッポの双方が解放され、ラースローは改めてクマン人を法律に従わせることを約束した。しかし、多くのクマンはフィリッポの要求を受け入れず、代わりにハンガリーから去る道を選んだ。ラースローは移住するクマン人の集団をサランケメン(現在のセルビアのスタリ・スランカメン(英語版))まで追ったが、彼らの出国を止められなかった。 ラースローはフィンタ・アバに対する軍事行動を開始し、1281年夏にその城を占領する。1282年にクマン人の一団がハンガリー南部に侵入する事件が起きる。『彩飾年代記(英語版)』には、ラースローは「人民と王国のために」クマン人と「勇敢なヨシュアのように戦った」と記されており、ホードメゼーヴァーシャールヘイ近辺のホード湖でクマン人を打ち破った。 1282年末にラースローはケーセギ家が領有するBorostyánkő(現在のオーストリアのベルンシュタイン・イム・ブルゲンラント(英語版))を包囲するが、ケーセギ家の抵抗にあい、1283年初頭にやむなく包囲を解除する。ラースローはケーセギ・イヴァンと和解し、7月6日までに彼をパラティン(英語版)に任じた。 ラースローは妃のエルジェーベトと離婚し、1283年末にはクマン人の集団の中で生活するようになっていた。
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