ギルザイ部族の反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 06:38 UTC 版)
「スルターン・フサイン (サファヴィー朝)」の記事における「ギルザイ部族の反乱」の解説
パシュトゥーン人の雄族、ギルザイの族長ミール・ワイスは、1709年にグルジン・ハーンを庭園の宴席に招き、謀殺した。事件の翌日に人々に独立を宣言し、カンダハールを中心にファラまで勢力化においてカンダハール王国を樹立した。スルターン・フサインは懐柔のためミール・ワイスをヴェキールに任命、ミール・ワイスも満足して1715年に死去するまで、名目上はフサインの臣下に留まった。 しかし1714年からペルシア湾沿岸の港町をアラブ系海賊が襲撃するようになり、1715年に政府が小麦を買い占めたためインフレーションで高騰したパンを求める民衆暴動が発生、アフガン系のアブダーリー部族(後のドゥッラーニー部族)もアフガニスタンのヘラートで反乱を起こす有様で、情勢は悪化の一途を辿った。そして、破綻の時は訪れた。1719年にミール・ワイスの息子マフムードがサファヴィー朝に反乱を起こしたのである。カンダハールから西進したマフムードはケルマーンを占拠、この時はそれ以上先へ進まずカンダハールへ撤退したが、1721年に再挙兵してイスファハーンへ迫り、フサインも迎撃のため軍を派遣して翌1722年3月8日に両軍はイスファハーンから東のグルナーバードで衝突したが、数に勝るサファヴィー軍がギルザイ軍に大敗した(グルナーバードの戦い)。 マフムードはイスファハーンへ到達すると包囲を開始、イスファハーンは7ヶ月も抵抗したが、食糧不足による飢餓と疫病で籠城側に多くの死者が続出、10月21日にフサインはマフムードに降伏、23日にマフムードにシャーの位を譲り退位した。こうして首都を失ったサファヴィー朝は事実上滅亡、フサインは幽閉の身となった。
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