ガイウス・センプロニウス・グラックスとの対立と執政官就任
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「ルキウス・オピミウス」の記事における「ガイウス・センプロニウス・グラックスとの対立と執政官就任」の解説
法務官就任から2年後の紀元前123年の末、オピミウスは執政官選挙に立候補した。この年はガイウス・センプロニウス・グラックス(グラックス弟)が護民官を務めており、プレブス(平民)およびエクィテス(騎士階級)に有利な法案を提唱していた。オピミウスは元老院と共に反グラックスの姿勢を見せていた。後に執政官となるマルクス・アエミリウス・スカウルスが、「私的な会話でオピミウスを反グラックスへと扇動した」ことが知られている。執政官選挙において、誰もが予想していなかったがグラックスはガイウス・ファンニウスを支援し、このためオピミウスは大敗してしまった。 オピミウスは翌年も執政官選挙に立候補した。この頃までには、オピミウスはすでに有力な元老院議員となっており、前回の選挙以来、多くの支持者を確保していた。オピミウスはかつてスキピオ・ナシカが率いていた、元老院の中でも最も保守的なグループのリーダーとなっており、あらゆる改革に反対していた。この頃グラックスは、かつてのカルタゴの土地に新植民都市コロニア・ユノニアを建設していたが、保守派が勢いを増していることを知ると急遽ローマに戻った。しかしオピミウスは執政官選挙に当選した。オピミウスは「危険な敵であるグラックスを追い払う」という確固たる意思を持って権力を握った。一方グラックスも3年連続して護民官選挙に立候補したが落選した。 オピミウスの同僚執政官はパトリキ(貴族)のクィントゥス・ファビウス・マクシムスであったが、彼は執政官任期中ずっとガリアで戦っていた。結果としてローマにおける権力はオピミウスに集中することとなり、反グラックス派は執政官任期が開始される年初から、断固たる処置を取ることをオピミウスに求めた。結果としてグラックス支持者は過激な行動に出る。アフリカから悪い前兆があったとの報告が届くと、グラックスが建設責任者となっていたコロニア・ユノニアをどうするかとの議論が始まった。オピミウスがグラックスが作った法律を廃止しようとした日、クリア・ユリア(元老院議事堂)には両派の代表者が武装して集まった。ここで小競り合いが起き、オピミウスのリクトル(護衛官)であるクィントゥス・アンティッリウスが殺害された。プルタルコスによれば、オピミウスはこれに悪意をもって反応し、復讐を開始することとした。
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