カンボジア説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 04:54 UTC 版)
東南アジアにおけるインド化された文明の最も古い考古学的証拠は、ビルマ中央部、タイ中央部と南部、およびメコンデルタの下部で発見されている。これらの発見は、東南アジアで設立された最初の政治的中心であった、扶南国またはノコール・プノンの時代に属する。扶南国は現在のカンボジアおよびベトナム南部(ビルマ、タイ、ラオスの一部を含む)にあった。碑文および考古学的証拠を考慮すると、初期の文献で言及されたスヴァルナブーミは、これらの地域に同定されなければならない。これらの地域のうち、扶南だけがオケオの港を通じてインドと海上のつながりを持っていた。したがって、後世においてスヴァルナブーミはインド東部のすべての土地、特にスマトラに広く適用される総称になったが、最初はおそらく扶南を指していた。さらに中国名「扶南」は、「スヴァルナブーミ」の「スヴァルナ」の音写の可能性がある。 2017年12月、王立プノンペン大学のVong Sotheara博士は、 コンポンスプー州Basedth地区でアンコール王朝以前の石碑を発見した。碑文は暫定的に633年に刻まれたと推定される。彼によると、碑文は「スヴァルナブーミがクメール帝国であることを証明する」だろうという。碑文は以下のように翻訳される。「偉大なイーシャーナヴァルマン王は栄光と勇気に満ちている。彼は王の王であり、スヴァルナブーミを国境である海まで統治し、近隣諸国の王たちは彼らの頭に彼の支配を尊崇している。」
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