カントリー・ハウスの成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 07:47 UTC 版)
「カントリー・ハウス」の記事における「カントリー・ハウスの成立」の解説
チューダー王朝二代目であるヘンリー8世は、カトリック信徒の離婚権を巡ってバチカンと対立の末、1534年に国王至上法を制定し、カトリック教会から独立させたイングランド国教会を新たに立てた。これに続いてイングランドにおける修道院財産の没収に乗り出し、1536年の小修道院解散法と1539年の大修道院解散法によって数百の修道院建物を接収、破却または家臣に下賜した。さらにその子であるエリザベス1世が1558年に即位すると、彼女は中流階級における才能ある人物を積極的に登用し、ウィリアム・セシル、フランシス・ウォルシンガム、ニコラス・ベイコン、トマス・グレシャムなどの活躍によってイングランドの勢威は輝きを増し、海外との貿易や文化交流が盛んになった。さらに女王は夏期の避暑兼地方巡幸において家臣の邸宅に滞在することを好み、家臣たちはその寵を得ようと競うようにして邸宅を飾り立てた。このような複数の要因によって田園における大邸宅の建築と改修が頻繁におこなわれた。これらの邸宅は荘園における農業社会の中心としての機能は中世期のマナー・ハウスと変わらなかったが、その建築様式、内装、内部構造などが変化していた為にカントリー・ハウスという名称で呼称されるようになった。
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