カブスでの活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 20:37 UTC 版)
「エド・ロイルバック」の記事における「カブスでの活躍」の解説
ロイルバックは1905年5月16日のニューヨーク・ジャイアンツとの試合にデビュー、試合は0-4と敗れたが打たれたヒットは5本だけだった。1年目の成績は18勝14敗で、290回以上を投げ自責点はわずか46、防御率は1.42という内容だった。 それ以降ロイルバックは、1909年までの5年間をほぼ防御率1点台で投げ続け、リーグの中でも最も打ちにくい投手の一人になった。鋭いカーブを決め球にし、その投球フォームは後年のフアン・マリシャルのように足を高く上げ、ボールの出所を隠すようなフォームだったという。カブスがナショナルリーグを3連覇する間、ロイルバックは1906年から1907年にかけて、当時のメジャーリーグ記録(1900年以降)となる『17連勝』を達成する。またワールドシリーズでも1906年と1907年にそれぞれ勝ち星を挙げた。 勝率は1906年から1908年まで3年連続リーグ1位となり、1908年にはナショナルリーグ記録となる『44イニング連続無失点』を成し遂げる。同じ年の9月26日には、ブルックリン・スパーバズ(現ドジャーズ)を相手に、メジャーリーグ史上唯一となる「ダブルヘッダー2試合連続完封」をやってのけた。更に1909年には再び連勝記録を14にまで延ばした。これだけの好投を続けたロイルバックだが、勝利数や防御率でリーグ1位になったことはない。当時のカブスは殿堂入りしたモーデカイ・ブラウンを初めとしてジャック・フィースター、カール・ラングレン、オーバル・オーバーオールなど好投手がひしめき合っており、またライバルだったニューヨーク・ジャイアンツでは、大投手クリスティ・マシューソンが全盛期を迎えていたためである。 ロイルバックの快進撃は1910年に終わりを迎える。同年は12勝8敗の成績だったが、防御率はデビュー以来初めて3点台となった。彼はこの頃妻ネリーとの間に一人息子をもうけているが病気がちで、シーズン中にジフテリアにかかった息子の看病のためにチームを離れることもあった。1913年シーズンは当初から不調で、ロイルバックはシーズン途中にブルックリンにトレードに出されることになった。
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