カフェ文士、演劇デビュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 06:16 UTC 版)
「エゴン・フリーデル」の記事における「カフェ文士、演劇デビュー」の解説
この間、1899年に遺産を手にし、財政的に独立してウィーンに住むことが可能となったフリーデルは、市内の「カフェ・ツェントラール(ドイツ語版)」によく出入りした。カフェハウスを通じてフーゴ・フォン・ホーフマンスタール(1874年 - 1929年)、カール・クラウス(1874年 - 1936年)、ペーター・アルテンベルク (1859年 - 1919年)など当時を代表する文化人と知り合っている。彼は、ジクムント・フロイトの著作については、これを批判し続けた。 1905年、フリーデルはクラウスの雑誌『ファッケル(炬火)』に「偏見」という題でひとつの意見を寄せている。それは次のようなものである。 私たちが自分たちの若さを通じて得る最悪の偏見は、生命が重大であるという考えである。子どもは正しい本能を持っている。かれらは、生命が重大でないことを知っており、ゲームとしてそれを扱うのだ... これ以外にも『ファッケル』には風刺的な文体で数多くのエッセイを書いている。 20代のフリーデルはまた、ゲーテの書記官であったエッカーマンにちなんで「アルテンベルクのエッカーマン」と自称していた。ペーター・アルテンベルクが風変りないでたちでウィーンを歩き回って市中の様々な印象を観察し、ありあわせの紙に書きつけたメモをカフェハウスで彼のポケットから取り出しては保管し、また、彼の口から洩れることばを書き留めることを日課としており、こうした中から、アルテンベルクの珠玉の短編集が生まれている。19歳年上のアルテンベルクと連れだってはウィーン市内を徘徊し、打ち止めはブルク劇場裏の居酒屋「レーベンブロイ亭」が多かったという。 1905年から1910年まで、フリーデルはヨハン・シュトラウス2世のオペレッタにちなんで命名されたカバレット(文学キャバレー)「こうもり」の芸術的管理者として働いた。共同管理者はアルフレート・ポルガー(1873年 - 1955年)であった。この間、フリーデルはエッセイと一幕物の戯曲を公表し続けた。戯曲における彼の最初の作品は『パラフィン王』である。また、ボルガーとの共同作品で自ら舞台に立ったスケッチ・コメディー『ゲーテ』は、彼をドイツ語圏で一躍有名にした。
※この「カフェ文士、演劇デビュー」の解説は、「エゴン・フリーデル」の解説の一部です。
「カフェ文士、演劇デビュー」を含む「エゴン・フリーデル」の記事については、「エゴン・フリーデル」の概要を参照ください。
- カフェ文士、演劇デビューのページへのリンク