オトラントの回復
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 22:56 UTC 版)
「オトラントの戦い」の記事における「オトラントの回復」の解説
町は1481年5月1日から包囲されたが、5月3日にオスマン帝国のスルタン、メフメト2世が死去した。スルタンは親征に出発したところであり、最終的な行き先はイタリアとも言われていたが定かではない。 いずれによせ後継を巡る二人の息子、ジェムとバヤズィトの争いが始まった。遠征軍司令官のゲディク・アフメド・パシャも、アブロニアからイスタンブールに帰還し、バヤズィトを支持した。ヨーロッパの期待ほどには帝位争いは長続きせず、6月20日のイェニシェヒルの戦いでジェムは敗れて亡命に追い込まれた。 バヤズィトは遠征を中断するつもりはなかった。ゲディグ・アフメド・パシャの後任としてルメリ総督ハドゥム・スレイマン・パシャ(英語版)に遠征を指揮させようとした。だが、ナポリ王の支援によってアルバニアで反乱が発生し 、さらにハンガリー軍も国境地帯を脅かしていた。このため援軍の派遣は不可能となり、オトラントでは包囲が続いた。海上封鎖によって補給が断たれ、現地軍の限界は近づいていた。 現地では交渉が行われた。有利を確信できなかったナポリ王は、通常の降伏とは異なり、オスマン軍が武器を保持したまま退去することを認めた。8月に交渉が成立してオスマン軍の大部分は撤収し、9月10日にオトラントは13ヶ月ぶりにキリスト教徒の手に戻った。 退去しなかったオスマン軍2,050名が捕虜となり、そのうち500名はナポリ王の軍に入り、のちに数々の戦いに参加したと言われる。
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