オジュバルト襲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 18:48 UTC 版)
「パルチザン (ユーゴスラビア)」の記事における「オジュバルト襲撃」の解説
1944年8月に行われたパルティザンによる軍事作戦では、132人の連合軍の兵士が一挙に救出され、この事件はオジュバルト襲撃(Raid at Ožbalt)と呼ばれる。 1944年6月、連合軍はオーストリア南部の収容所からユーゴスラヴィアを経て脱出する連合軍兵士への支援に乗り出した。連合軍はスロヴェニア北部、マリボルの北50キロメートルほどの、オーストリアのすぐ南に位置するオジュバルト(Ožbalt)に監視哨を設置した。この近くにはドイツが設置した労働収容所があり、スロヴェニア・パルティザンはここを襲撃して全ての囚人を解放した。 100人を超える戦争捕虜たちは、マリボルのスタラクXVIII-D(Stalag XVIII-D)の管理下に置かれ、毎日鉄道修復の作業をし、夜に収容所に戻る生活をしていた。パルティザンはこの捕虜と接触し、8月30日の15時に監視の目をかいくぐって7人の捕虜が脱出に成功し、21時には国境よりスロヴェニア側に8キロメートルのところにある村でパルティザンから脱出を祝福されていた。7人の脱走捕虜はパルティザンと共に残された捕虜たちの解放を計画した。31日の朝、7人は100人程度のパルティザンとともに、労働のために捕虜を運ぶ列車の到着を待った。捕虜たちの労働が始まるとパルティザンは襲撃を開始し、監視しているドイツ人らを無力化し、捕虜たちはパルティザンの保護の下脱走に成功した。 捕虜たちはパルティザンの司令部のキャンプに到着すると、132人の囚人が脱出に成功した旨をイギリスに伝達した。ドイツ軍のパトロールは重厚で、脱出経路の確保は困難を極め、パトロール中のドイツ軍の夜襲によって2人の脱走捕虜と2人の護衛が死亡する事態も起こった。最終的に脱走捕虜はベラ・クライナ地方のセミチにあるパルティザンの空軍基地に到達し、1944年9月21日にイタリアのバーリに送り届けられた。
※この「オジュバルト襲撃」の解説は、「パルチザン (ユーゴスラビア)」の解説の一部です。
「オジュバルト襲撃」を含む「パルチザン (ユーゴスラビア)」の記事については、「パルチザン (ユーゴスラビア)」の概要を参照ください。
- オジュバルト襲撃のページへのリンク