エンジェル島移民局
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 05:30 UTC 版)
「エンジェル島収容所」の記事における「エンジェル島移民局」の解説
1905年、チャイナコーブに移民局が建設され、1910年から1940年まで運営された。特に太平洋側から米国に入国する移民を管理、尋問、拘留するための施設であった。1870年代、景気後退で深刻な失業問題は、低賃金で働くアジア系移民に対する差別的反感に拍車をかけた。1882年に中国系移民を対象とした中国人排斥法が可決され、最終的に1924年の移民法に統合され、アジア系移民を大きく制限するものとなった。エンジェル島移民局の移民は84か国から到着し、なかでは中国系移民が最大のグループであったが、次に日系移民が続き、1915年には日系移民が中国系移民を上回った。 また太平洋側からの移民の中には、ドイツ、オーストリア、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアでナチスの支配から逃れた数百人のユダヤ人がいた。サン・ブルーノの公文書館に残されているエンジェル島の移民記録では、1939年から40年にかけて約500人のユダヤ人が日本や中国から出港しサンフランシスコに到着したことを示している。主なルートとしてはラトビア・リトアニアからモスクワへ、そしてシベリア鉄道でウラジオストク、そこから敦賀港を経て神戸や横浜に、さらに太平洋を横断してエンジェル島に到着する。あるユダヤ人家族は、楽洋丸で太平洋を横断し、エンジェル島に9日間収容されたのちに自由の身となった。ベルリンを出発してから2ヶ月近くかかったことになる。
※この「エンジェル島移民局」の解説は、「エンジェル島収容所」の解説の一部です。
「エンジェル島移民局」を含む「エンジェル島収容所」の記事については、「エンジェル島収容所」の概要を参照ください。
- エンジェル島移民局のページへのリンク