ウラヌスとの出会いと金メダル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 18:24 UTC 版)
「西竹一」の記事における「ウラヌスとの出会いと金メダル」の解説
1930年(昭和5年)に、出場が決まったロサンゼルスオリンピックのために半年間の休養を取り、アメリカ合衆国とヨーロッパへ向かった。この際にヨーロッパへ向かう船内で当時の世界的スターのダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォード夫妻と親交を持った。 3月に西はイタリアにて、後に終生の友とも言うべき存在となる愛馬ウラヌス(ウラヌス号)との運命的な出会いを果たす。西は6,500伊リラ(当時の換算レートで、6,500伊リラ=100英ポンド=1,000日本円)でウラヌスを自費購入した。西はウラヌスと共にヨーロッパ各地の馬術大会に参加し、数々の好成績を残す。 さらに1932年(昭和7年)の習志野騎兵第16連隊附陸軍騎兵中尉時代、騎兵監などを歴任した大島又彦陸軍中将を団長に、城戸俊三陸軍騎兵少佐ら帝国陸軍の出場選手一同と参加したロサンゼルスオリンピックでは、西はあざやかな手綱さばきでウラヌスを駆って馬術大障害飛越競技にて優勝、金メダリストとなる。 なお、これはアジア諸国として最初の、また2021年に東京オリンピックが閉幕した現在においても、日本勢がオリンピック馬術競技でメダルを獲得した唯一の記録である。 最後の障害競技で、ウラヌス自身が自ら後足を横に捻ってクリアしたこともあり、インタビューでは「We won.」(「我々(自分とウラヌス)は勝った」)と応じている。 この活躍とその出自や性格から、西は「バロン西」と呼ばれ欧米、とりわけ上流階級の名士が集まる社交界で、また当時人種差別感情が元でアメリカで排斥されていた在米日本人や日系アメリカ人の人気を集め、後にロサンゼルス市の名誉市民にもなっている。なお現地で行われた金メダル受賞パーティーではダグラス・フェアバンクスと再会し、友情を温めるとともに金メダルを祝った。 翌1933年(昭和8年)8月には陸軍騎兵大尉に進級、陸軍騎兵学校の教官となる。
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