ウズベク・カザフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 09:29 UTC 版)
キプチャク草原を根拠地としたジョチ・ウルスはイスラームを受容し、多くのテュルク系民族を抱えていたためにテュルク化も進展した。15世紀になると、カザン・ハン国、アストラハン・ハン国、クリミア・ハン国、シャイバーニー朝、カザフ・ハン国、シビル・ハン国といったテュルク系の王朝が次々と独立したため、ジョチ・ウルスの政治的統一は完全に失われた。 現在のウズベク人とカザフ人の祖先はジョチ・ウルス東部から独立したシバン家のアブール=ハイル・ハーン(在位:1426年 - 1468年)に率いられた集団であった。彼らはウズベクと呼ばれ、キプチャク草原東部の統一後、シル川中流域に根拠地を遷したが、ジャーニー・ベク・ハーンとケレイ・ハーンがアブール=ハイル・ハーンに背いてモグーリスタン辺境へ移住したため、ウズベクは2つに分離し、前者をウズベク、後者をウズベク・カザフもしくはカザフと呼んで区別するようになった。アブール=ハイル・ハーンの没後、ウズベク集団は分裂し、その多くは先に分離していたカザフ集団に合流した。勢力を増したカザフはキプチャク草原の遊牧民をも吸収し、強力な遊牧国家であるカザフ・ハン国を形成した。やがてウズベクの集団もムハンマド・シャイバーニー・ハーンのもとで再統合し、マー・ワラー・アンナフル、フェルガナ、ホラズム、ホラーサーンといった各地域を占領してシャーバーニー朝と呼ばれる王朝を築いた。 1599年にシャイバーニー朝が滅亡したあと、マー・ワラー・アンナフルの政権はジャーン朝(アストラハン朝)に移行した。ジャーン朝は1756年にマンギト朝によって滅ぼされるが、シャイバーニー朝からマンギト朝に至るまでの首都がブハラに置かれたため、この3王朝をあわせてブハラ・ハン国と呼ぶ。また、ホラズム地方のウルゲンチを拠点とした政権(これもシャイバーニー朝)は17世紀末にヒヴァに遷都したため、次のイナク朝(1804年 - 1920年)とともにヒヴァ・ハン国と呼ばれる。そして、18世紀にウズベクのミング部族によってフェルガナ地方に建てられた政権はコーカンドを首都としたため、コーカンド・ハン国と呼ばれる。これらウズベク人によって西トルキスタンに建てられた3つの国家を3ハーン国と称する。
※この「ウズベク・カザフ」の解説は、「中央アジア史」の解説の一部です。
「ウズベク・カザフ」を含む「中央アジア史」の記事については、「中央アジア史」の概要を参照ください。
- ウズベクカザフのページへのリンク