ウォルトディズニーとワーナーブラザーズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 21:25 UTC 版)
「アニメーションの歴史」の記事における「ウォルトディズニーとワーナーブラザーズ」の解説
「アメリカン・アニメーションの黄金時代」も参照 1923年、Laugh-O-Gramsというスタジオが破産し、その所有者であるウォルト・ディズニーがロサンゼルスに新しいスタジオを開設した。ディズニーの最初のプロジェクトは、多くのキャラクターと対話するライブアクションの女の子を特色にしたアリスコメディーズ(Alice Comedies)シリーズだった。ディズニーの最初の画期的な作品は、1928年の「蒸気船ウィリー」で、ミッキーマウスシリーズの3作目に当たる 。これはアニメーションとしては初の本格的なトーキーであった。ただし、多くの人が「蒸気船ウィリー」が最初の音がついたアニメーションであると信じているが、これ以前に1924年5月から1926年9月にかけてMax FleischerとDave Fleischerが"sound-on-film"という技法を使って19の音の付いたアニメーション作品を製作している。 1933年にはワーナー・ブラザースが設立された。ディズニーのスタジオはウォルト・ディズニー自身が厳重に管理していることで知られていたが、ワーナー・ブラザースではアニメーターの自由を許し、アニメーターがより身近なスタイルを開発することを可能にした。 フルカラーの3色テクニカラーを使用した最初のアニメーションは1932年にディズニーによって制作された花と木で、これはアカデミー賞を受賞した。カラーアニメーションはまもなく業界標準となり、1934年にワーナーは最初のカラー映画であるメリー・メロディーズシリーズのHoneymoon Hotelを発表した。一方、ディズニーは、アニメーション映画の成功は情緒的な物語を伝えることに依存していることに気付いた。彼は、アニメーターとは別のストーリー作家による「ストーリー部門」を設置した。これはディズニースタジオが1933年に初めて開発したキャラクターである三匹の子ぶたでその真価を発揮した。1935年、テックス・アヴェリーはワーナーとの最初の映画を発表した。アヴェリーの作風は、スラップスティック感覚で、急速に変化し、暴力的で風刺的であった
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