イヴァンアセン2世のタルノヴォ碑文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 10:37 UTC 版)
「クロコトニツァの戦い」の記事における「イヴァンアセン2世のタルノヴォ碑文」の解説
戦勝を記念して、ブルガリアの皇帝は、ブルガリア帝国の首都ヴェリコ・タルノヴォにある教会「聖40殉教者」の大理石の柱の1つに碑文を刻んだ。この碑文の文章は、現存するあらゆる資料の中で、戦いの結果とその余波を最も正確に示す証拠となっている。 「世界の年6738年(西暦1230年)、3回目の印可。キリストの神におけるヨハネ・アセン、ブルガリアの君主、古い皇帝アセンの息子は、この神殿が装飾されていた私の治世の12年目に、彼らの助けを借りて、聖なる40人の殉教者の名において、基礎から持ち上げ、芸術で飾りつけた。私はルーマニアに出征し、ギリシャ軍を破り、彼らの皇帝、キル・テオドール・コムネノスと彼のすべてのボヤールを捕らえた。そして私は彼の土地のすべてをオドリン(アドリアーノプル)からドラク(ドゥラス)に至る彼の全土を征服し、ギリシャ人とアルバニア人とセルビア人も征服した。そしてツァリグラード周辺の町とこの町はフラジ(ラテン人)によって支配されていましたが、彼らも私の帝国に服属した。彼らには私以外の皇帝がいなかったので、彼らは私に感謝して日々を過ごした。神がこれを命じられたからだ。永遠に彼に栄光あれ、アーメン。」
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