インド、スマトラ、マラッカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/02 04:06 UTC 版)
「フェルナン・ピレス・デ・アンドラーデ」の記事における「インド、スマトラ、マラッカ」の解説
アフォンソ・デ・アルブケルケが1511年にインドのコーチを出発してマラッカ王国を征服したとき、フェルナン・ピレス・デ・アンドラーデはその艦隊の中の一隻の艦長であった。ポルトガルの歴史家ジョアン・デ・バロス(1496年 – 1570年)によれば、アルブケルケ率いるポルトガル艦隊がスリランカとアチェの間の海域で大嵐に遭った時、シモン・マルティーニョの船が沈んだが、その乗組員は全員アンドラーデの船に救出された。この損失を埋め合わせるため、ポルトガル艦隊はグジャラートからマラッカ・スマトラへ向かっていた5隻の船を拿捕し、徴用した。その後 東南アジアに到達したこの小さなポルトガル艦隊は、ルムッ(現マレーシア・ペラ州)とベラワン(現インドネシア・北スマトラ州)の間にある島で、マラッカの「ムーア人」の「ジャンク船」と交戦した。バロスによれば、両艦隊は2日間にわたって戦い続けた。敵方は火船を用いてアルケブルケの船を焼こうとしたり、至近距離まで近づいて矢を射かけてきたりした。最終的に敵のジャンク船は降伏したが、ポルトガル人はその船と船員を称えて「オー・ブラボー」(勇敢な)と呼んだ。ポルトガル人の船員たちの意向を受けて、アンドラーデはオー・ブラボーの船員を「単に戦っている相手が誰だか気づいていなかった」ポルトガルの属民とみなすことで助命するようアルケブルケを説得した。最終的にはアルケブルケもこれを了承した。 バロスはアルケブルケのスマトラ遠征を物語ったのち、中国がスマトラとインドの間の交易路を主に支配していること、またスマトラに住む中国人の存在感についても言及している。バロスによれば、スマトラのパセン(Pacem)という王国でアンドラーデが中国で交易もしくは献上品として使うための香辛料を集めて船に載せている間に、2人の王が殺害され、王位が簒奪された。これにより何らかの混乱、内乱が起きたのは明らかである。というのも、そこではいかなる指導者も神授的な権力を持っているとみなされることがなく、他の王族によって殺されうるということをバロスが記録しているからである。歴史家のマーク・ディオンによれば、フェルナンは自身の著作でも同様の話を述べるとともに、ムスリムでなければ王に取って代わることができない、というバロスの著作には見られない内容を付け加えている。
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