インテリと聖職者に対するテロと犯罪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/09 21:48 UTC 版)
「ポーランド人に対するナチスの犯罪」の記事における「インテリと聖職者に対するテロと犯罪」の解説
1939年のポーランド侵攻の際、親衛隊と警察部隊の特別行動部隊が戦線の後方に配置され、前もって作成された捜索リストに基づき、ドイツ人に対する抵抗の気勢を示したりあるいは抵抗すると疑われた民間人をその社会的地位によって逮捕殺害した。何万人もの裕福な地主、聖職者、公務員、教師、医師、歯科医師、ジャーナリストなどの知識層はポーランド人であるかユダヤ人であるかに関わらず大量虐殺行為によって殺害されたか、刑務所や強制収容所に送られた。民族ドイツ人(Volksdeutshe)から構成されたドイツ陸軍部隊や自衛団もまた、民間人の処刑に加わった。多くの場合、ドイツ部隊に対する攻撃やドイツ人に対する殺害行為にコミュニティ全体が連帯責任を負わされ、その復讐行為として処刑が行われた。例えば、タンネンベルク作戦では2万人以上の知識層が殺害された。 ヴァルテラント帝国大管区のローマ・カトリック教会は他のどこよりも抑圧された。教会は計画的に閉鎖され、司祭たちは殺害されるか、拘留されるか、総督府へ追放されるかした。神学校や修道院は閉鎖され、修道士や尼僧は迫害された。1939年から1945年までの期間、ポーランド全体で3千人のポーランド人聖職者が殺害されたと推定される。他に1,992人が強制収容所で死亡し、そのうち787人がダッハウ強制収容所で命を落とした。 伊東孝之著『世界現代史27 ポーランド現代史』(山川出版社、1988年)によると、ポーランドは終戦までに、医師の45%、裁判官・弁護士の57%、教師の15%、大学教授の40%、高級技師の50%、初級・中級技師の30%、聖職者の18%を失ったとされている。
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