アーティスティックスイミング選手としての活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 15:55 UTC 版)
「奥野史子」の記事における「アーティスティックスイミング選手としての活躍」の解説
高校在学中は、シンクロナイズドスイミングが初めて正式種目となった国体に出場して優勝した。さらに、日本代表としても活躍。1989年、FINAシンクロワールドカップパリ大会では、日本チームの一員として銅メダルを獲得。同志社大学商学部への進学後の1991年、世界選手権パース大会でチーム銅メダル、W杯ボン大会でソロ銅メダル・デュエット銀メダル。 同志社大2年生だった、1992年に出場の1992年バルセロナオリンピックではソロで3位入賞、高山亜樹と組んだデュエットでも3位入賞を果たし、合計2個の五輪銅メダリストと成る。此れにより、日本代表として1984年ロサンゼルス五輪と、1988年ソウル五輪に引き続き、シンクロ種目では3大会連続でソロ・デュエット共に3位入賞を果たした。 1993年、シンクロワールドカップローザンヌ大会ではチームで銅メダルを獲得。しかしロシアの台頭で、ソロとデュエットでメダルを逃してしまい、失意のどん底に落ちるが一念発起する。 1994年世界選手権ローマ大会のソロ種目で、それまでのシンクロの常識を覆す女の情念や怒りを表現した「笑わないシンクロ」、「夜叉の舞」をフリールーティンにて披露する。世界選手権ではソロ種目で史上初の芸術点オール満点を記録し、日本人としても当時最高順位の2位となる銀メダルを獲得。この快挙達成に奥野は思わず嬉し涙を流し、現在でも日本シンクロ界で語り継がれる伝説の演技となった。デュエットでも銀メダル、チームでも銅メダルを獲得。さらに同年の広島アジア大会ではソロ・デュエットで共に金メダルを獲得した。 しかし1995年1月、腰痛の悪化などを理由に現役引退を表明。
※この「アーティスティックスイミング選手としての活躍」の解説は、「奥野史子」の解説の一部です。
「アーティスティックスイミング選手としての活躍」を含む「奥野史子」の記事については、「奥野史子」の概要を参照ください。
- アーティスティックスイミング選手としての活躍のページへのリンク