アンリ二世とは? わかりやすく解説

アンリ二世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:31 UTC 版)

ユグノー戦争」の記事における「アンリ二世」の解説

アンリ2世治世1547年 - 1559年)でも迫害断続的に続き治世の終わり頃に異端審問のための新たな法廷作られ、これはプロテスタントからは火刑法廷la chambre ardente)と呼ばれた。これはこの時期カルヴァン派ルター派凌いでフランス国内におけるプロテスタント主流になり、急速に数を増やしたことの反動と見られるフランス生まれジャン・カルヴァンによって作られカルヴァン主義は、社会階層職業違いなく人々惹きつけ、更には地域差なく広範囲広まっていた。 1559年66カルヴァン派信徒団の代表が秘密裏パリ集まって第1回全国教会会議催し信仰告白教会規則作成した1560年時点で、カルヴァン派フランス総人口1800万人の約10%推定されている。 1559年アンリ2世突発的な事故死政治的空白作り出しフランソワ2世の妃であるスコットランド女王メアリー母方親族であるギーズ家実権握ったギーズ公フランソワカレーイングランドから奪回した英雄であり、その弟のロレーヌ枢機卿はフランス・カトリック教会首長で、いずれも熱狂的なカトリックだった。一方プロテスタントブルボン家当主ナバラ王アントワーヌ盟主戴いていたが、熱狂的プロテスタントの妻ナバラ女王ジャンヌ・ダルブレナバラ王マルグリットの娘)に主導権取られる頼りない人物で(戦争中寝返ってカトリック改宗している)、後に弟のコンデ公ルイプロテスタント中心となる

※この「アンリ二世」の解説は、「ユグノー戦争」の解説の一部です。
「アンリ二世」を含む「ユグノー戦争」の記事については、「ユグノー戦争」の概要を参照ください。

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