アレクサンダル_(ブルガリア公)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > アレクサンダル_(ブルガリア公)の意味・解説 

アレクサンダル (ブルガリア公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/22 20:01 UTC 版)

アレクサンダル1世
Александър I
ブルガリア
アレクサンダル1世
在位 1879年4月29日1886年9月7日

全名 Александър Йозеф
アレクサンダル・ヨゼフ
Alexander Joseph
アレクサンダー・ヨーゼフ
出生 (1857-04-05) 1857年4月5日
オーストリア帝国
ロンバルド=ヴェネトヴェローナ
死去 (1893-10-23) 1893年10月23日(36歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国グラーツ
埋葬 ブルガリア公国ソフィアバッテンベルク霊廟
配偶者 ヨハンナ・ロイジンガー
子女 アセン
ツヴェタナ
家名 バッテンベルク家
父親 アレクサンダー・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット
母親 ユリア・ハウケ
宗教 キリスト教ルーテル教会
テンプレートを表示

アレクサンダル1世ブルガリア語: Александър I1857年4月5日 - 1893年11月17日)は、ブルガリア(在位:1879年4月29日 - 1886年9月7日)。ドイツ名はアレクサンダー・ヨーゼフ・フォン・バッテンベルク(ドイツ語: Alexander Joseph von Battenberg)。

生涯

バッテンベルク家の祖アレクサンダーヘッセン大公ルートヴィヒ2世の四男)の次男として生まれる。父方の叔母マリーロシア皇帝アレクサンドル2世の皇后であり、父もロシア陸軍の軍人だったため、サンクトペテルブルクで育った。長じて自らも父と同じくロシア軍人となり、1877年から1878年露土戦争ではロシア軍将校として参戦している。

露土戦争の結果、ブルガリアにオスマン帝国を宗主国とするブルガリア公国が成立すると、ブルガリア議会1879年に憲法を制定し、欧州列強の承認のもとにアレクサンダーをブルガリア公(クニャズ)に選んだ。アレクサンダルは1879年7月初めにブルガリアに到着し、ブルガリア公に即位した。

アレクサンダル1世も、またロシア政府も、自由主義的な憲法に不満を抱き、即位当初からアレクサンダル1世と議会とは憲法をめぐって対立し、頻繁に政権交代が繰り返された。

1886年、親露派のクーデターによって一時亡命した。クーデターは鎮圧されたが、ロシア皇帝アレクサンドル3世が帰国を認めなかったため、同年正式に退位した。1893年に36歳で死去し、ソフィアに埋葬された。

ブルガリア公は一時空位となり、首相のステファン・スタンボロフ英語版ブルガリア語版らが摂政として統治した後、ザクセン=コーブルク=ゴータ家フェルディナントが新たなブルガリア公(後に国王)に選ばれた。

家族

退位後の1889年オペラ歌手のヨハンナ・ロイジンガーと結婚し、1男1女を儲けた。

関連項目

アレクサンダル (ブルガリア公)

1857年4月5日 - 1893年11月17日

爵位・家督
先代
コンスタンティン2世
ブルガリア公
1879年 - 1886年
次代
フェルディナント



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アレクサンダル_(ブルガリア公)」の関連用語

アレクサンダル_(ブルガリア公)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アレクサンダル_(ブルガリア公)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアレクサンダル (ブルガリア公) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS